・月読尊
・天照皇大御神
・忍穂耳尊
・大山昨尊
・軻遇突智命
西寒多神社の摂社・本宮社は同神社の西南にそびえる本宮山(標高603メートル)の東側山頂付近(9合目)に鎮座している。所在地は、大分市上判田である。
毎年3月20日と10月20日の春と秋の2回、祭りを行っている。西寒多神社からの宮司や宮総代の幹事ら10人弱と上判田地区のほぼ同数の氏子によって営まれている。
この本宮社へは、西寒多神社の神殿の裏から参道が続いており、大人の足で2時間くらいかかる。ふじヶ丘団地西側の霊山の麓を走る県道大分大野線(41号)を大野方向に進んで、途中(県民の森付近)から左折する林道を利用するか、国道10号線の判田から米良川に沿って安田を経て到達する道がある。
林道から本宮社に向かうと古い石造りの「一ノ鳥居」があり、「本宮社」の篇額が掲げられている。更に20メートルばかり東に進むと「二ノ鳥居」が立っている。文化15年(1818)建立、昭和19年(1944)年再建である。近くに高さ約4メートルの灯篭が2基立っている。その向こうの一段高い所に社殿があり、緩やかな階段を登ると両側に狛犬が飾られている。
本宮社が鎮座している場所は頂上より一段低く東側に噴き出た狭い尾根上で、南側はすぐに深い谷になっているため眺望に優れている。周囲は大分市によって「本宮社の森」と名付けられた原生林に覆われている。この原生林がなければ、東側や北側の展望も開かれそうな地形である。
社殿は南向きで、本殿と拝殿があり、その間を渡殿がつないでいる。入り口にある記念碑にあるとうに、昭和60年(1980)に鎮座1700年を記念して回収した。その際、拝殿はコンクリート造りにし、アルミサッシのガラス戸にされ、神社としての雰囲気が減じた。本殿は、本来の銅板葺きである。社殿のある場所は狭く、西側を除く3方向は急峻な崖になっている。境内の広さは、約4630平方メートル(1430坪)だが、周囲の官有林と一体となっている。原生林の中に武内社が鎮座している。
本宮社の本来のご神体は、社殿から林道を西方向に戻った所にある巨石であったと思われる。高さが10メートル以上あり、数個の石が組み合わさって三角形をしている。重さは200トン前後ではないか、と見られる。この巨石はよそから運び上げてきたとの説もあるが、はっきりしたことはわからない。
この本宮社は、明治4年(1871)村社に定められ、上判田の氏子たちによって管理や祭祀が行われていた。それ以前では、寛政2年(1790)に安田村と高取村の氏子が灯篭一対を奉納、更に文化15年(1818)には医師の鳥居が奉納されている。
西寒多神社には明治7年に宮司の田近陽一郎が教部大輔宍戸璣に提出した次のような本宮社の由緒報告が保存されている。
西寒多神社本宮社由緒書上
西寒多神社之本宮ト唱候社ハ本社ヨリ南ニ當登一里許之高山ニ而今本宮地獄 縁起ニハ上見獄ト有之 ト申山之頂ニ有之古来西寒多神社之本宮山ト申傳候天正三年旧記輯録之由ノ本社之縁起ニ神官皇后三韓ヨリ御愷陣之節此山ニ被為登國中御覧之特為其證白幡一本被立置候ヲ國人籬垣ヲ結尊崇仕候處威霊有之ニ依テ應仁天皇御宇?聞ヲ經式内宿祢下向有テ宮殿造営天照大神月讀尊天忍穂耳尊ヲ勧請有之其後敏達天皇二年本宮ヨリ西寒多山に霊異事有之ニ依繰生清海ト云者西寒多山ニ石寶殿ヲ建右三神ヲ表敬ス然ルニ乗馬ノ者神罰ヲ蒙ノ患アルヲ以テ右石社ヲ山麓ニ遷シ殿宇造営致シ是今之本社ノ旨ニ記有之候右縁起ノ文ハ難信候得共既ニ天正ノ頃ヨリ西寒多神社ノ故宮ト致候事ハ右縁起之文ニテ著明ニ御座候本宮社往古ハ大社ニテ可有之相考候事ハ今本社之旧境界之南外本社ヨリ四丁許登候處ニ廣キ平面之地有之今ハ畑ニテ字ヲ二王堂又大門ト呼申候此地本宮社之総門ニテ二王門有之候所ノ由又六合許登リテ高鳥ト申小邨有之高鳥トハ高鳥居ノ畧ニテ鳥居有之候カト申説有之高鳥?上嶮敷坂オカミオリ坂ト申候三神西寒多山へ下向ノ坂故神降ノ稱有之由又山山上ニ怪敷小穴三ツ有之穴ニテ汐ノ干満ニ随テ露水滴ルト申事ニ御座候右ニ付本宮社建物之形容本社姿姿勢図之上層ニ書加上進仕候以上
明治七年十一月十五日
教部大輔宍戸璣殿
西寒多神社宮司 田近陽一郎
[Source: 御遷座六百年史]
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