Friday, February 24, 2017

西寒多神社: 三代実録

西寒多神社の名前が初めて記録に登場するは貞観11年(869)のことで、『三代実録』という歴史書にこの年の3月に当時神階を持たなかった西寒多神社に「従五位下」の位が与えられたことが書かれている。しかし、10世紀に出された「延喜式神名帳」以後、歴史資料に登場せず、詳しい歴史はわかっていない。享保3年(1718)に神主の佐藤家長が著した『豊後国一宮西寒多神社之略記』には、建久8年(1197)に大友氏の初代能直から神領の寄進を受けて以来、代々の大友氏から安堵を受けたこと、薩摩の島津氏が豊後まで攻め込んできた際に神殿が破壊されたが、大友義統が再興したこと、などが記されている。

『神祇志料』によると、弘安8年(1285)に「神田二百四十六町」とあるが、これは由(柞)原宮の神田のこととされ、「豊後国図田帳」には見えない。また、享和3年(1803)に編纂の『豊後国志』には西寒多神社を深く信仰していた大友氏10代の親世が応永15年(1408)に居館に近い現在地に社殿を移したと伝えられており、このことから鎌倉・室町時代を通じて大友氏と密接な関係が続き、庇護を受けてきたものと推測される。

『大日本国一宮記』に西寒多神社(号大分宮。箱崎同体也。又、名 柞原八幡)豊後大分郡」と記され、寛文4年(1664)白井宗因の『神社便覧』には豊葦原一宮御事として「西寒多神社 豊後大分郡」とある。延宝4年(1676)霜月下二日付けの橘三喜の『一宮巡詣之願主記』には「一国一宮巡詣之時、過 豊之後州寒田村 拝 西寒多大明神」と記される。

西寒多神社のある寒田地区は、且つては豊後国大分郡早田荘の一部で、寛永11年(1634)松平忠昭領、万治元年(1658)幕府領となり高松代官の支配を受けた。寛文5年(1665)、肥後熊本藩の領地となったが、一年後、再び幕府領に戻った。天和2年(1682)日田藩松平直矩領、貞享3年(1686)には三度幕府領となったが、正徳2年(1712)日向の牧野延岡藩の領地となった。

延享4年(1747)、牧野氏が転封となり、内藤氏が入封してからも延岡藩の領地が続いた。延岡藩は、初め山津に役所を置いて豊後各地の枝領を治めたが、後に千歳に役所を移した。西寒多神社はこの役所の支配を受けた。歴代の延岡藩主の尊崇を受けたのもこのためである。

延岡が明治2年(1867)に行った神社取調では代々の領主から境内地の年貢を免除されていたようで、内藤氏の時代には蔵米から三十石が寄進されていた。この神社取調書によると、境内には本社(神殿)、拝殿、神楽殿、御炊殿、神子屋、本地堂などがあり、このうち本地堂を取り除いたことが記載されている。恐らく前年3月に出された神仏分離令とそれによって巻き起こった廃仏毀釈運動に関連した対応と思われる。

廃仏毀釈運動に関して言えば、『大分郡志』に「社僧は霊山也」との記述がある。社僧とは、神社や神宮寺に属して、仏事を修する僧侶のことで、霊山(九嶷山)中腹の飛来山霊山寺と歴史的に密接な関係があったことが推測されるが、それを示す文書は全く残されていない。慶應4年(1868)3月17日に神祇事務局が発した「別当社僧復飾令」など一連の法令による「神仏分離令」や同28日の「仏教色撤去令」によって廃仏毀釈運動が巻き起こった際に、意図的には破却されたことも十分考えられる。

延岡藩の神社取調書には各建物の大きさが書かれている。その内容と明治6年から8年まで権宮司を務めた清原宣道が描いた「西寒多神社形容姿勢図」が、完全に一致するので、その信憑性は高い。
旧宮大工家の建築記録には、慶長14年(1609)寒田一宮が再興されたことが記されている。

このうち棟札が現存するのは延享3年の分のみで、略記のほか旧宮大工の建築記録にも残っている。略記に記載されていないが、弘化4年(1847)には、神楽殿の再建が行われており、その時の棟札が残されている。

一方、旧宮大工家に伝わる「建築記録」によると、宝暦8年(1758)に西寒多神社の屋根が「カネ(銅板)葺」になったことが記されており、形容姿勢図の神殿の銅板葺きは、この時になされたことも考えられる。しかし、明治以降の記録では神殿の屋根は、檜皮葺に替えられたのかもしれない。略記よると2年後の宝暦10年(1760)に神殿が改築されたとしている。

この旧宮大工家の建築記録には、文化4年(1807)に寒田一宮の鳥居が建てられた、とある。

[Source: 御遷座六百年史]

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