Saturday, February 25, 2017

西寒多神社: 社格と神階

西寒多神社は、昭和20年まで国幣中社の中格が与えられていた。これは、明治4年(1871)5月14日、太政官布告によって定められたものである。

社格は、「延喜式神名帳」の中に出てくるようにいろんな形式で用いられてきたが、昭和20年の敗戦後、国家神道が廃されたのに伴って社格制度も廃止され、別表神社に指定された。このため西寒多神社の最新の社格ということになれば、太政官布告による国幣中社ということになる。

太政官布告では国家自らが経営する神社を官社、それ以外の神社を諸社と称した。官社には官幣大社、官幣中社、官幣小社と国幣大社、国幣中社、国幣小社があった。そして官弊社には例祭に際して皇室から、国弊社には国庫から幣帛料が神社に供進されていた。

ちなみに諸社には府・県社、郷社、村社の4つがあり、これ以外に無格社があった。また、この他に歴史上の人物を祀った別格官幣大社があった。

西寒多神社はまた「豊後一ノ宮」という社格を与えられていた。この「一ノ宮」とか「二ノ宮」という社格の表現は歴史が古く、10世紀頃から行われてきた。国司等がその国の有力な神社を巡拝する時の順位をしめしたもので、時代によって異なることも多い。

諸国一ノ官表を見ると、同じ国に一ノ宮が複数あった所がかなりある。九州では豊後と備前に複数の一ノ宮があった。豊後では西寒多神社と柞原八幡宮に「豊後一ノ宮」の社格を与えられていた。但し、古代、中世の古文書や古記録には西寒多神社を「豊後一之宮」とする記録は見えず、資料的に立証できない。

西寒多神社が「一ノ宮」を称するようになった背景としては『大日本一宮記』に
と記されたことや、寛文4年(1664)白井宗因の『神社便覧』に豊葺原一宮御事として「西寒多神社 豊後大分郡」とあること、更に延宝4年(1676)霜月下二日付けの橘三喜誌す『一宮巡詣之願主記』に
と記されていることなどが影響したとの説がある。


神階

神階は、諸神に奉授した位階で、資料の上で最初に登場したのは天武天皇元年(672年)7月である。この神階が授与されたのは9世紀に集中しており、これらの中には式内社に組織されていない神社が400社近くある。時の権力者が神階を授ける目的は、在地の富豪層を背景に新たに成長してきた神祇を、時の権力者つまり国家が掌握すると共に、国家につなぎとめておくことにあった、とされる。

式内社の数は神名帳に登載された当時、3,132座あり、このうち豊後には次の6座あった。

大分郡西寒多神社(大分市寒田に鎮座)

直入郡建男霜凝日子神社(竹田市神原に鎮座)

速水郡宇奈岐日女神社(由布市湯布院町川北に鎮座)

火男火賣神社二座(別府市鶴見に鎮座)

海部郡早吸日女神社(大分市関に鎮座)


これらは、9世紀半ば以降に神階を授けられている。この中で西寒多神社は最も遅く神階を授けられている。しかし、「延喜式神名帳」に「大分郡一座名神大社西寒多神社」とあり、国幣大社、つまり国司が祭る神として記載された。『類聚三代格』によると、嘉祥3年(850)に出された太政官符はそれまでの神階に一階加え、無位の神社には六位を授けるよう命じ、大社や名神社で無位のものは直ちに従五位下を授けるよう命じている。。

更にその翌年、従五位を授けられた神以外は全て正六位にするよう命じている。これによると嘉祥4年以前の神社で無位の神はいないことになるが、『日本三大実録』貞観11年(869)3月22日条に西寒多神社は無位から従五位を授けられている。このことから類推すると西寒多神社の創建は嘉祥4年(851)以降、貞観11年以前ということになる。

また西寒多神社が、短期間のうちに社格を上昇させた背景には、周辺地域の開発が進んで力を付けてきた富豪層を国家機構に組み込もうとする中央政府の思惑を指摘する見方がある。つまり、もともと西寒多神社は寒田川と敷戸川の流域を開発した富豪層と、それに率いられた農民が祀った神で、9世紀初頭から九州を襲った凶作と飢饉の際に富豪層が貧窮農民を率いてこの地域の開発を進め力を付けてきた。このため中央政府は在地の神を国家の神祇体制の中に組み込み、それによって地方の富豪層を従わせる方策をとったのだ、との見方が強い。(『大分市史(上)』)

No comments:

Post a Comment

万年筆のノート術

知人がプレゼントしてくれた原稿用紙。 かなり前に製造中止になったKOKUYOさんの万年筆専用ノート(手帳サイズ/ノ-CH2U)のストックが、あと1冊になってしまいました。 KOKUYOさんの 書翰箋(ヒ-211)は、万年筆用のメモ帳としては、自分の中では最高クラ...