Friday, March 31, 2017

龍馬は2回だ~大分編~

聖徳太子が現場復帰することになった。

教科書から太子の名が消えたことに「歴史への冒涜」と怒っていた議員さんもいたが、怒るほどの話ではない。

研究が進めばイロイロなことがわかってくるのは当たり前の話だ。

最初は10億年だった地球年齢は30億年になり、そして現在は45億年となったのだが、もしかしたら将来50億年になることもあるのかもしれない。

逆に、昔のままという方が不自然な話で、世界で一番長く続いている日本国の新たな歴史発見を楽しむ余裕があってもいいのではないかな。

小生は、今までの歴史をベースに「こういう説もある」という位置づけで肉付けしている。

タイムマシンがなければ、本当のことなどわかるはずもない。

後世の人が書き記したり、口伝だったりを繰り返すうちに段々話が変わってくるのは、現代以上にあったのではないかと想像できる。

織田信長の暗殺でも様々な都市伝説があり、話をややこしくさせているのが吉田兼見の日記『兼見卿記』の存在だ。

詳細は、沢山の方々が書籍やネットで論じているので省略するが、本来の『兼見卿記』の他に「本能寺の変」の辺りの記述が書き換えられているもう一つの『兼見卿記』が存在しているのだという話。

なぜ、そこだけ書き換える必要があったのか?

歴史は常に勝者の都合により作られるものであり、都合の悪いものは抹消されてしまう。

そもそも本当のことを書いているのかと、疑いだしたらキリがない。

近代から現代でもそういう二重帳簿的なことは日常茶飯事であろう。

太平洋戦争の敗者である我々は、知らない事の方が多いのかもしれない。

考古学の進化により神話だと思っていた古事記が史実となることもあるだろうし、空海伝説も本当の話なのかもしれない。

詰め込み暗記歴史ではなく、歴史が変わったり埋もれたりするという時代背景にこそ歴史の面白味・重みがあるということも教えて頂きたい。
***
坂本龍馬フリークの話を拝聴すると、ほぼ司馬遼太郎先生の「龍馬がゆく」に引っ張られすぎというのはよくあることなのだが、それは龍馬が近年まで歴史の舞台には登場せず、しっかりとした研究記録がなかったということでもある。最近は、イロイロな資料が出てくるようになり、小説の中から飛び出しつつある。

「龍馬がゆく」の影響力は歴史書以上であり、この影響力によって歴史が書き換えられることもある。

わが町大分県に関わること。
元治元年(1864)2月14日、勝海舟・坂本龍馬一行は神戸より観光丸に乗船し、大分の佐賀関を目指した。そこから鶴崎~久住~阿蘇~熊本~島原~長崎までを7泊8日で移動した。そのことは『海舟日記』に記されおり、佐賀関での宿「徳応寺」の宿泊名簿(復路)にも記録されている。

軍艦奉行: 勝麟太郎 

高木三郎・高山喜一郎・高松太三郎・高松好市・佐藤輿一郎・黒木小太郎・坂本龍馬・竹田康次郎

往路メンバーを調べてみると、海舟の他は、坂本龍馬・千屋寅之助・望月亀弥太・近藤長次郎が同行したとあった。

余談ではあるが、この長崎出張には「時服2着」「御羽織」「黄金10枚」「拝借金500両」を持参したと記録さており、文久3年の500両は、現在の1,280万円くらいであるらしい。超インフレ時代に結構な出張費である。


しかしながら『龍馬がゆく』では、佐賀県の伊万里に上陸し長崎に向かったと書かれており、それを史実として刷り込まれた。現在も多くの人達が「え。そうだったの?」と思うのではなかろうか。

当時のお金で1,000万円の経費を投じての取材と緻密な分析をもとに書かれたはずの『龍馬がゆく』で、なぜ、伊万里上陸だったのだろうか?

勉強不足は考えられない。

「そこは小説なので適当でいいだろう」という司馬遼太郎先生でもない。

となると、何かしらの意図があってのことではないか。

では、その意図とは?

そこが知りたくて仕方がなく、司馬遼太郎先生のノートやメモなどから「なぜ伊万里だったのか」についての記述が見つからないかと心待ちにしている。(知ってる人は知っているのかもしれないが)


しかしながら、その佐賀関上陸からの話にも、ちょっとした疑問点がある。

佐賀関から鶴崎までの5里は陸路で移動したというのが定説だが、調べてみるとある大学の先生の書籍に「・・・ここ(鶴崎)より船を捨てて陸路、九州を横切る」と書かれていたのだ。この説についての根拠は書かれてはいなかった。

『海舟日記』には「十六日、豊後鶴崎の本陣へ宿す。佐賀関より五里。此地、街市、可なり、市は白滝川に沿う。山川水清、川口浅し。」とあり、移動手段については触れていない。

こういう事も後世に歴史が誤認識される原因にもなるのであろう。


「じゃあ『海舟日記』についてはどうなの?」という事についてはどうだろうか。

勝海舟は、ノート術が苦手だったという話だ。

メモ紙(半紙)に乱記し、後日まとめて整理をしていた。頭が良い方なのでメモをとる必要がなかったのかもしれない。

数ヵ月、半年スパンで整理することもあったそうな。

アバウトであることは本人も認識しており、その都度「私のメモは適当で・・・」と、断りを入れていたらしい。

『海舟日記』の信憑性はいかに・・・

海舟先生っ!

***
小生は、『海舟日記』を読んでいない。

『海舟日記』は今どこにあり、そして誰が所蔵しているのかを調べてみた。

江戸東京博物館歴史研究室が、「勝海舟関係資料 海舟日記」という書籍を出版し完売、数年前はAmazonで10,000円~(中古)で販売されていた。

国立国会図書館には「勝海舟関係資料 海舟日記」が所蔵されていることを確認。

数年前に「東京都江戸東京博物館」に電話してみた。

2冊ある原本の1冊が「東京都江戸東京博物館」にあり、原本を見ることはできないが、マイクロフィルムに記録されているということだった。

「もう1冊はどこにあるのでしょうか?」と尋ねたところ、講談社さんが持っていると教えてくれた。

講談社さんに電話してみたところ、「講談社・野間記念館」にあるということがわかった。

電話をかけてみた。

間違いなく存在するということだったが、こちらも閲覧はできず、「ボロボロなのですか?」と尋ねると、「いえいえ、そこまでではないです」ということだった。

ちょっとはボロボロなのかもしれない。

15年ほど前(?)に「東京都江戸東京博物館」で「勝海舟展」があり、その時に貸し出したそうで、海舟日記の写真が展示されているのではないかとおっしゃっていた。

講談社さんが出している『海舟全集』の中に『海舟日記』について書かれていると教えてくれた。

けど、やっぱり原本が見たい。機会があれば、「東京都江戸東京博物館」で『海舟日記』のマイクロフィルムを閲覧させていただこうと思う。


そして、小生は、7年前に『海舟日記』のスケジュール(7泊8日)で佐賀関から長崎まで実際に歩いてみた。

そして断言する。

「この道で間違いない」と。
***

司馬遼太郎先生ほどの方であれば、我々が知らないことを知っているという可能性も否定できない。

龍馬は、歴史に登場してから暗殺されるまでの5年間で、歴史年表から数ヵ月間姿を消すという空白の時間が2度あった。その間の資料や手紙は残されていない(発見されていない)。

一つは、文久3年(1864)11月10日、勝海舟が軍艦奉行を罷免された後の4ヵ月間。長崎に行きグラバーから沢山のことを学び、「亀山社中」設立の準備をしたいう説が最有力となっている。(所説あり)

グラバーには同年2~4月に長崎に滞在した時に対面し、知った仲であった。この時に佐賀関から肥後街道を通って長崎に向かったのである。次に歴史年表に登場するのは、慶応元年(1865)4月5日である。

もう一つは、少し遡って文久3年(1862)に脱藩した時だ。4月1日に下関に到着するも待ち人には会えず、一緒に脱藩した沢村惣之丞は京へ、龍馬は薩摩へ向かったとされている。次に維新土佐勤王史「6月11日大坂着」と刻まれるまでの2ヵ月間の行動が定かではない。

ここからが本題である。

龍馬は、関門海峡を渡り、国東半島を経由し熊本に入り、薩摩街道を南下し薩摩に向かったとされているが、出水市の野間関で2重鎖国の薩摩に入国拒否をされ、来た道を戻ったとされている。
国東半島を経由して熊本に向かうということは、サビエルが通った道を龍馬も歩き、別府経由で狭間方面へ、今市あたりで肥後街道に合流したのではないだろうか?

大分では「大分市佐賀関~長崎」間の一往復のみという認識になっているが、龍馬は、その2年前に既に1人で豊後を通過し、肥後街道を通っていたかもしれないという話なのだ。

大分の龍馬フリークにとっては、来県が1回と2回では大問題であるはずなのに、誰もこの話をしない。

海舟・龍馬が1往復した肥後街道やザビエルが1往復した『ザビエルの道』だけで大盛り上がりする大分の人達が、この龍馬の一度目の入国については、なぜかスルーする。

ここが、小生の一番の謎である。

なしか?

司馬遼太郎先生しか知らない同様の龍馬ストーリーが存在するのかもしれない。

ストーリーは、こういうマイナーな歴史から生まれるのだ。

知識は有限、想像力は無限である。

Thursday, March 30, 2017

大分の変質者と自殺と

子供ちゃんや若い子が命を落とす悲劇のニュースを聞くと胸が痛くなる。

「物事順番ってものがあるんじゃねぇのかい、神様」と言いたくもなる。

高校生の雪崩の事故は、アメリカでも報道された。

千葉県の女の子ちゃんの事件は、怒りしかない。

2012年から2014年まで、大分県の変質者マップを作成し公開していた。2015年からは大分県警が同様のマップの公開を開始したことでやめた。

マップにするとどのエリアに変質者が多いのかが一目瞭然であり、実際にその辺りを歩いてみると「なるほどね」と感じることがある。

変質者が出没するたびにアップデートをしていると、変質者の傾向というのも見えてくる。

以前は今回のような変質者による全国版の事件があると、大分の変質者はしばらく身をひそめ大人しくしていた。そのうち1人出没すると次々と湧いて出る。「やっぱりニュースとか気にしてるんだ」と思っていた。

現在はお構いなしの傾向にあるのではないかな。危険な傾向だ。

では、満月と変質者出没の因果関係について統計(2012-14)をとってみたが、それは関係なかった。

自分の勉強のためにも2017年版を作成してみようかと考え中。ゴミ拾いとの関係もあるし。アクセス数も多かった。

ビーン・カウンター(Bean Counter)という仕事がある。

豆を数える専門家。
車のエンジンに不具合があることにメーカーが気付いた。

致命的な欠陥ではないが、将来事故が起こり死者が出る可能性がある。

リコールをかけるか・・・
知らんふりするか・・・

ここで、Mr.ビーン・カウンターが登場し、数字をはじき出す。

リコールにかかる費用はいくらか?
どのくらいの確率で事故が発生するのか?
どのくらいの確率で人が死ぬのか?
リコールにかかる費用と、人が死んだ時の賠償金はどっちが高くつくのか?

彼らは数字を出すだけで、経営者と弁護士がその数字を見て判断するのである。

ロバート・マクナマラという国防長官がいた。UCバークレーで経済を専攻し、副専攻で数学と哲学を勉強していた。ハーバードでMBAを取得し、一旦就職してからハーバードのビジネス・スクールで企業経営に用いる数値解析手法を陸軍航空軍将校に教えた。その後、フォードを経て国務長官になり、アメリカはベトナム戦争に突入していくのである。そこで、彼が提唱したのが、数値解析手法から導き出される「Kill Ratio」。ビーン・カウンター的発想で、人の命を数値化するのだ。

例えば、

敵の兵士の値段を1人10万円とする。自軍の兵隊を育て戦場に送り込むまでにかかった費用が、1人あたま1,000万円とする。敵兵を100人殺してトントン。10人しか殺していない自軍の兵が戦士してしまったら大赤字。

人の命までを数値化するというのは、日本人にはなじまない話なのだが、自殺による日本の経済損失がはじき出された。

「自殺されると経済にも影響が出で困っちゃうので抑止しないとね」と言われると、「日本はなんて情けない国になってしまったのか」と、司馬遼太郎先生からお叱りを受け、三島由紀夫先生が国会議事堂に乗り込んで演説を始めてしまうのではないかしら。

シビアな世の中だ。


大分では、「大分いのちの電話事務局」・自治体・警察で相談にのってくれる人達がいて、全国初の自殺専門の「当番弁護士」制度もスタートした。

人様の生き死にの相談にのるなんてことは、そう簡単にできることではない。ご苦労も多いことでしょう。アメリカはカウンセリングの国なので、病んだ心を治してくれる(相談にのってくれる)カウンセラーは多いが、多くの相談を受ける中でカウンセラーが病んでしまうこともあり、カウンセラーがカウンセリングを受けることも少なくはない。それくらい大変なことだ。担当される方のストレスにも気を使って頂きたい。


サンフランシスコの17歳の女子高生が、自殺を考える(精神的に病んだ)若い人達をサポートするサイトを開設したという現地のニュースを見た。(2017.1.2)

サイトのコンセプトは、「ティーンによるティーンのためのサイト」というシンプルなものだ。

TeenzTalk

先生達がこの問題に触れたがらないと感じた彼女は、同世代の同じ悩みを抱える人達の話をPEER-TO-PEERで聞いたり、話したりできるというシステムを彼女自身がデザインした。学校で心理学も勉強している。

大人には話せないこと、大人には理解してもらえないことがある。

加えて、同世代の体験談をシェアでき、専門家のアドバイスを聞くこともできる。

週500件ほどの相談があるとのこと。(開設8ヵ月時点)

サイトはかなり拡大し協力者も多くなっている。

日本では自殺という難しいテーマを子供に運営させることに抵抗があるかもしれないが、考え方を取り入れてみるというのも一つの対策ではないかと思う。

また、アメリカのティーンの体験談を含めて紹介するのもよいことではないかな。

貴重な若い命が一つでも助かるのならね。(大人もだけど)


ゴミが多い場所は、命がなくなる場所でもある。

ゴミ拾いルートで焼身自殺(その他自殺も)があり、殺人(死体遺棄も)があり、特に河川敷は人が死に場所を求める場所になることもあり、実際に自殺志願者の話を聞き止めたことがある。

人が命を落としてしまうと、人が寄り付かなくなり更にゴミが捨てられ負の「氣」が漂うのである。

人間だけでなく、ゴミの多い場所では動物も命を落とす。

だから、ゴミを拾いキレイにしておかなければならないのだ。

小生は、そういう所のゴミも拾い歩いている。机の下には皆さんには見えないゴミが沢山ある。

【20137.3.30】孤高のゴミ拾い: 21,480 km/13,347 mi

久しぶりに日記名「やおねぇ爺さん」にお会いしました。日記を読み返すと、昨年11月24日以来でした。

元々の糖尿病に昨年狭心症を患ったのですが、今日お見掛けした様子では、お元気そうでした。

ゴミ袋を持って歩く私を見て「やおねぇなぁ」といつもおっしゃるので、「やおねぇ爺さん」です。

最初はなんとなく警戒されていたのですが、そのうちお会いするたびに飴ちゃんをくれるようになり、「まぁ一杯付き合いよ」とジュースをおごってくれることもあります。

強力な歯磨きガムを頂戴し、歯の詰めものが取れるというアクシデントがあった昨年の11月24日です。
ゴミとの厳しい戦いは続きます。

何度回収しても捨てられてしまいます。

耐えることで自分を律したいと思います。
容赦ないゴミの攻撃にへこみかけた時、天使ちゃんの靴下が片方だけ落ちているのを見ると、なんだかほっとして気持ちをリセットすることができるのです。

「頑張って拾ってね」というメッセージに聞こえる時もあります。天使ちゃん達が最初に歩く道はキレイにしておきたいです。
春になって天使ちゃんの靴下をよく拾うようになりました。

ママちゃん、気を付けて下さいね。わかりやすい所に置いていますので気付いてくれればよいなと。天使ちゃんのちっこいあんよに戻りますように。
皆様のご理解とご協力をお願い致します。

Wednesday, March 29, 2017

大分の幸福の作り方とは

ゴミの件からの続きである。

日々、この町の超現実を拾い歩き「大分にとっての幸せとは一体なんだろう?」と思うことがある。

幸せは人それぞれの価値観であるので定義というものは存在しないのではないか。

お金持ちになることが幸せという人がいれば、春の風が頬に触れたことを幸せに感じ微笑む人もいる。

朝いつも通りに目覚めたことさえ幸せに感じる人もいる。

自分が不幸だと、人に幸せを与えることはできないのではないかな。

個人の価値観はイロイロだが、国や町の幸せとは何だろう。

「大分にとっての幸福とはなんぞや?」ということを大分人は理解しているのであろうか。

日本の幸福度は世界で51番目だった。

カナダは7番目。

「カナダの幸福の作り方」についての現地ニュース記事を読んだ。

大切なのは、

1. 実験
・幸福をデザインするには、新しいコンセプトを構築し、常に挑戦する意欲を持つこと。

2. 幸福になることへの理解
・目標の具体的数値、現状の把握と共有。(良いことも悪いことも)

3. 幸福に暮らしたいという強い気持
・どのように幸福に暮らしたいのかを具体的に述べることができるのか。

4. 信頼すべき空間
・非営利の公共スペースの充実(施設・サービス・アクセスなど)

5. マンパワー
・皆が協力して町を良くするという気持ちの共有
・モラルやルールの順守

と書かれていた。(要約すると)

日本ほど標語が多い国はないだろう。大分も多い。

小生が子供の頃は既にそういう社会だったが、果たしてそれでうまくいっているのかしら?

その標語のおかげで、大分の人は「ゴミを捨ててはいけない」「交通ルールを守ろう」「差別はやめよう」とサラリと口には出るものの、「So ?(で?)」となると、足が動かない。

かつて、環境問題について「自然を大切に」と口に出す日本人は80%存在するが、実際に行動に移す人は20%と言われていた。

アメリカでは、反対に20%が口だけ出し、80%が行動すると。

これは、標語社会の弊害ではないかなと思っている。

全てを否定するわけではないが、そろそろ違うステージ(コンセプト)に入らなければ標語が反作用を起こしかねない事態になるような気がしてならない。既にゴミやヘイトなど反作用を起こし始めているが。

日米半々くらいの生活をして、公共の場でのマナーやルールの順守は、アメリカ人の方が優れているのではないかと感じている。

ただ、日本人の方が、良くも悪くも各段に外面はよい。

アメリカでは学歴や収入などがそのままモラルや犯罪率に直結する傾向にあるのだが、日本では決してそうではなかったし、それが誇りでもあった。

しかしながら、現在ゴミの件で言えば、大分ではいわゆる普通の人達が未開封や食べかけや飲みかけのものを捨てるという、外国にはない特徴を持っている。

同時にネット世界では激しく意見するものの、実では無関心化が進んでいる。

大分市議選の投票に行かなかった市民が50%を超え、無関心である彼らがマジョリティになってしまったのだ。

「無関心は最後の抵抗」と言われている。

東北震災から毎年のように大きな災害が日本を襲い、少し日本人の意識も変わってきたように思うが、それは良い面もあり、悪い面もある。

アメリカも911以降は、彼らのもつ明るさやフレンドリーさがなくなり、いつも周囲を気にし怯えながら生活をし、それがストレスとなり疲労が蓄積された。そこにトランプ大統領が現れたのだ。

建国以来初めて分断されたアメリカは、現在「Ununited States of  America」状態である。

日本も大分も物騒な話が多くなってきた。

日本を取り巻く環境も荒っぽくなってきた。


カナダの幸福の作り方を読んで、「大分の幸福の作り方」について知りたくなってきた。

大分の民は、具体的にどのような大分の幸せを望み、それに対してどのように考え行動をしているのであろうか。

また、考えはしているけど行動に移さない、移せない理由とは何なんだろう。

そして、何に抵抗しているのだろうか。

県民・市民が腹を割って「大分の幸福の作り方」について本気で具体的に話し合ったことがあったのだろうか。

不満を吐きぶつけ合うのではなく、「大分の幸福の作り方」について机上で考えた餅でもなく、本気で取り組んだことはあったのかな。

ゴミ拾いひとつ本気になれない町で。

とういう小生も反省すべき人間であり、「この町に貢献」「公に協力」という気持ちで毎日4時間近く(準備など含む)を費やしゴミを21,000 km以上も拾い歩いている。

なんとか止めなければ【2017.3.29】孤高のゴミ拾い: 21,465 km/13,338 mi

ゴミ拾い後半の府内大橋付近でちょっとだけ雨がぽつぽつと。
『マイセン』さんのカツサンドを食べずに捨てます?

大分の人達はお金持ちで、「本当にこの町で子供の貧困なんて存在するのかしら?」と疑ってしまうような現象を日々目撃します。

ポイ捨てゴミから判断する「ゴミノミクス」では、まだ景気が良くなったという判断はできず。

未開封で捨てる、食べずに捨てる、食べかけを捨てるというのは、外国のポイ捨てゴミではあまりみない光景ですが、大分の町は非常に多いです。
人様の家の敷地に車中より投げ込まれていた『マクドナルド』さんのゴミです。
 天使ちゃんのオムツのポイ捨てが止まりません。今日だけで4ヵ所で回収しました。
大分市のスラム化は静かに進行中ですが、壊れていく音は徐々に大きくなってきています。

穴をふさがず漏れる以上の水を注ぎ続けることで、なんとなくうまくいっているように見える大分の町ですが、ちょっと視点をずらすと違う顔が見えてきます。聞く耳をもてば、壊れていく音がきこえてきます。

見ようとせず、聞こうともせず、見て見ぬふり、聞こえないふりを決め込んでいる人がマジョリティである社会になっていませんか。
もう性善説ではやっていけません。
もう標語やスローガン・パフォーマンスではどうにもなりません。

道路や山河だけではなく、田畑やお墓・お地蔵さんにまでゴミを投げつけるのです。

「自分さえよければいいんだ」という声がゴミから聞こえてきます。

子供ちゃん達が、「大人の人が捨てる」と私に抗議するのです。

大人が子供ちゃん達の手本になれない社会で、「ごめんね」と謝罪することしかできないのです。

人生の大先輩方が、「役所に言っても、警察に言っても、学校に言ってもどうにもならん」と怒りと悔しさと嘆きと、そして諦めが入り混じった口調でおっしゃいます。

「自分が拾います」としか言えません。

ゴミ問題は、ゴミだけの話ではなく全ての問題の基です。

なんとか止めなければ・・・。

お金儲けや活性化とは直接的には関係ない案件なので、興味ないことかもしれませんが。
大分は、こんなに不遜な町だったでしょうか?

A question that sometimes drives me hazy: am I or are the others crazy?
時々私をもうろうとさせる疑問がある。おかしいのは私なのか、あるいは彼らなのか?
~アルバート・アインシュタイン~

皆様のご理解とご協力をお願い致します。

Tuesday, March 28, 2017

2017.3.28(tue) ちょっと振り向いてみただけの大分人

市街地中心部に出かけたついでに、大分の町をあてもなく歩いてみた。

車中心の町づくりであるため、歩人にとっては魅力的な町とは言い難く。

以前、大分市教育委員会が発行した「府内城下町散策 ルートマップ」をGoogle Mapにおとしてみた。勿論、実際に歩いてもみた。今はもう話題になることもなく。

アップデートしているのかもしれないが、チェックはしていない。

View 府内城下町散策 ルートマップ~大分市教育委員会~ in a larger map

散策ルート1: 「府内城の夢の跡をたずねて」(所要時間: 約60分)
  • 府内城を起点・終点に、ジャングル公園を休憩場所として組み込んでいます。お散歩あるいは初級ウォーキングコースを目的としています。
  • 府内城を出発し、城北西部の侍町を通り、舟奉行屋敷跡、船頭町を経由し、堀川口へ向かい、ジャングル公園で休憩、周囲のプレートを見学し、ルート後半は笠和口から三之丸西口、侍町の現在の雰囲気を見ながら府内城に戻ります。
散策ルート2: 「府内城 今昔」(所要時間: 約90分)
  • 府内城の今と昔をたどる学習の場として位置付けています。講座や勉強会の会場として、市役所・アートプラザ・金春ホールをルートに組み込んでいます。
  • 府内城の諸施設・三之丸エリアの武家屋敷を想わせる白壁、町人町に残る町割りや山弥長者の伝説など、現在に残る江戸時代の名残を辿ります。
散策ルート3: 「府内商人の歴史をめぐる」(所要時間: 各約30分)
  • まちなかで開催されるイベントの一環として、府内商人をテーマに、中央町・大手町エリアのコンパクトなふたつのルートを設定しました。
  • 竹町噴水前広場をスタートし若草公園でゴールするルートでは、府内商人の痕跡と大分カトリック教会・西新町天満社・光西寺を巡ります。
  • コンパルホールを基点としたルートでは、城下町栄えた頃の旧町名のプレートや江戸時代からの地割を訪ねます。
散策ルート4: 「府内の幹線道路をたどって」(所要時間: 約30-60分)
  • スタンダードな「府内の幹線道路をたどる」ルートで、世代を超えた学習教材として位置付けます。
  • 当時の道が無くなった部分を、一部現在の通りに代えることで、当時の賑わいを感じることができます。スタート・ゴールを入れ替えることでイロイロなパターンが楽しめます。
かなり前に「史跡めぐりの道(上野・古国府方面)」も歩いてみた。その時、ガイドブックを片手に歩いていたご夫婦に道を尋ねられ、「期待外れだった」と後悔の表情を浮かべながら汗をふいた。

「司馬遼太郎さんが大分に着た時、この古国府をスタートして湯布院まで行こうとしたのですが、時間がなかったので別府から湯布院に向かったのですよ。彼は、この古国府が取材力旅行のスタートにふさわしい地と思っていたみたいですよ・・・」と、県立図書館の先哲資料館で仕入れた薄い知識をひけらしたところ、司馬遼太郎ファンであるというご夫婦は「ほー」と興味心を取り戻し、丁寧に頭を下げ坂を上っていった。

現状、ほとんどの大分市民にとっては、興味のない歴史道だと思う。

歩人・街角のへっぽこマーケターとしては、「もうちょっとこうすればよいのになぁ」というのはある。


狭い町なので、顔の狭い小生でも歩けば誰かにあたる。

ちょっとコーヒーでもと誘われ、空席の目立つカフェに入った。

5年ぶりくらいになるだろうか。

「新聞を見てビックリしました」と、小声で言った。

その間、結婚して離婚をしたという彼女は、以前より疲れた感じに見えた。

「もう結婚はしばらくコリゴリ・・・」

1人で入ってきた口髭の紳士が席につく前に給仕係の女性を呼び止め、「アメリカンコーヒーを薄くして。それから・・・」とフードについても何かしら一言付け足して注文を続け、腰かけたと同時に鞄からノートを取り出した。

「大分を離れようと思って」

環境を変え再出発したいのだと言い、シフォンケーキの最後のかけらを口に運び、ちょっとこぼした。

口にケーキがついていたけど、彼女にはそのことを伝えず、しばらくケーキ付きの子供っぽい口元を眺めたいた。

注文の多い紳士に目をやると、口髭に何かつけていた。

「もう決めたの?」と聞くと、彼女は注文の多い紳士をチラリと見て、自分の口に手をやり「まだ迷ってるかな・・・」と、ケーキを取り除いた。

「もう結婚はしばらくコリゴリ・・・」

別れ際に彼女はまた呟いた。

環境を変えて戻ってくる人もいれば、出ていく人もいる。

海の向こうに渡る人もいれば、戻ってくる人もいる。

人生いろいろだ。


カフェを出て本屋に立ち寄るとポンと肩を叩かれた。

振り向くとこれまた随分ご無沙汰の男性で、随分恰幅がよくなり全体的に老けた印象を受けた。

それは、お互い様だ。

「5年ぶりくらいですかね」

最近できたであろう飲み屋に入り、座った瞬間に彼が切り出した。

座った瞬間に飲み物を聞かれる飲食店は苦手で、どんなに評判がよく美味しいお店でもその瞬間に席を立ち河岸を変えたくなってしまうのだ。(立ち飲み屋など除く)

飲食店に責任はなく、その店を選んだ小生が悪い。

飲食店に関して言えば、口込みや評判を参考にすることはない。

給仕の女性に聞かれる前に慌ただしく彼は飲み物を注文した。

給仕の女性がこちらをチラリと見たので「同じものを」とお願いし、飲み物と一緒に珍しい種で作られた突き出し(お通し)が出てきた。

どうやら突き出しに手を抜かない飲食店らしい。

「突き出しに手を抜かない飲食店」という特集記事を情報誌にお願いしたい。

気の利いた突き出しが出てくると、次に頼む料理へのイメージや期待が膨らみ気分が良いものなんだよ。

江戸時代の居酒屋には、既に突き出しシステムは存在した。

「新聞見てビックリしましたよ。ウチのが新聞を先に見てね・・・」と、一気にビールを飲み干し大きな声で言った。

彼は2杯目のビールを頼もうとし、ちょっと考えて焼酎に切り替えた。

世のお父さん方には、ワンコインでビールを飲ませてあげたいもんだねぇ。

彼は自分の仕事の話を始め、そして「大分はまとまりがない」と大分論を語り始めた。

「大分はまとまりがない」というのはよく聞く話で、特によそから移り住んできた人達にとっては、奇異に映ることも多いらしい。

多くの大分人は、その理由を分藩にあると考えているが、若い世代は大分歴史的背景については知らないようだ。

ゴミ拾い道中の大分市南方、肥後街道沿いはかなり細かく分藩されている。

登拝でお世話になっている西寒多神社は、大友家によって崇敬されていたが、その後延岡藩の飛び地となり、明治時代になるまでは歴史に埋もれてしまったのだ。

10代当主の大友親世(ちかよ)により応永15年(1408年)3月に西寒多山(本宮山)本宮社から現在地に遷座された。

埋もれた時代の資料が少なく、年表作成も難しい。

大友宗麟公以降の大分史は、世間の興味対象になることはなかった。

南蛮文化と言っても、現代の大分にそれが継承されているということではない。

国難であった大政奉還の頃、大分人は何をしていたのだろう?

現在、先哲資料館に行くたびに幕末から明治維新の頃の書物を読んでいる

加藤清正が整備した肥後街道も熊本では大切に保護されているものの、国境を越え大分に入るとただの田舎道になってしまい、大分市街地近辺ではズタズタに寸断され跡形もない。


以前ネット記事にあった大分人の特徴。


大分県民――なぜ同じ県民なのに、悪口言って足を引っ張り合うのか

九州人なのに「商売上手」、協調性のない大分県人

8つの藩が統合されてできた背景から、九州らしさがないと言われている大分県。八者八様の異なる考え方は県としてまとまろうという意識が低く、いがみ合いで足を引っ張り合ってきた。こうしたまとまりのなさが、大分が「赤猫根性」と呼ばれる所以に。また商人気質が強く、合理的なのも九州人らしくない。協調性に乏しく、それぞれの地域間競争意識が強く、自主独立志向の高い人が多い。この性格は、「一村一品」という、県をあげての運動に生かされている。頑固かというとそうではなく、人見知りで照れ屋の話しベタなので、誤解されやすいが、内心は情熱的で温かい人が多い。じっくり話を聞いて、信頼関係を築くこと。

●良評・明朗で公平な意見を持つ人が多いと思う(宮城・男)
・困ったことがあると助けてくれるような、やさしさがある(栃木・女)

●悪評
・率先して動かず、頑固で陰気な性格だと思う(東京・女)
・自分勝手で付き合いにくい(埼玉・男)

上司――意外に心は温かい男上司。見かけより芯が強い女上司
●男上司
照れ屋で話しベタ。口数が少ないうえに独断的な人が多い。他人の意見よりも、自分の方針を貫くタイプなので、名上司かダメ上司かの両極端に。言葉づかいも荒く短気なので、ご機嫌取りはムダ。心の中は温かいが、それを表現できない、損な性分を理解すると強い信頼関係が。口の軽い人間は信用されない。

●女上司
柔軟性があり、行動力もある人が多い。控えめな見かけによらず、芯が強いし、粘り強く、浮ついたところもないのが特徴。聞く耳を持っているから、どんどん意見を。思わぬ評価につながることも。また会議などでも、積極的に発言することが大切。日頃の仕事ぶりを見ているので、そのつもりで。

部下――地味な印象の男部下。実は気さくな女部下
●男部下
話しベタで要領が悪いし、印象も地味なので、組織の中ではなかなか評価されない、損な部分もある。しかし、素直で真面目な、信頼できる部下。ほめられると自信がつくが、叩かれるとペシャンコになり、立ち直れないことも。人前では決して叱らないこと。いい仕事をしたらほめてやると成長する。

●女部下
控えめな性格の人が多い。無愛想に見えても、実は気さくで社交的。やや愛嬌に欠けるのと、現実主義者のドライな面が欠点。すべてに堅実で、無駄づかいしない。仕事に対しては、マイペースでもコツコツ取り組むタイプ。素直で、協調性もあり、グチをこぼさないしっかり者。やさしい声かけが効果的。

取引先――ほどほどが好きな大分の顧客。誠実第一で取り組もう
県民性そのままに、一匹狼型の顧客が多い大分県。商売に対する積極性がなく、何事にも「ほどほど」主義なのが特徴。対人関係を結ぶのも苦手なので、新しく取引関係を結ぶまでには時間がかかり、苦労するのを覚悟。だが、実直なので、一度取引が成立すれば、長い付き合いをしてくれる。まずは誠実第一でじっくりと取り組むのがベター。営業の際は、ベラベラとしゃべりすぎたり、相手の言葉じりをとらえたりしないように注意。

●営業ポイント
1. ズケズケ言われても、怒って反論はするな
2. ていねいな意思伝達がカギ
3. じっくりと信用を勝ち取れ

恋愛――消極的な大分男。積極的な大分女
人見知りが激しく、不器用で無口な大分の男性。感情表現がヘタで、恋愛にも消極的。そのわりに結婚が早く、模範的な家族想いの夫に。浮気もせず隠し事も苦手なので安心。はっきりしないので、こちらも誠意を見せながら、焦らず本音を探るのがいちばん。女性は逆に積極的だが、尻軽タイプではない。「遊び」と割り切ることもなく、観察眼もある。我慢しないので、嫌いになったらすぐに別れを告げることも。誠実に接して○。

●口説きポイント
1. ベラベラおしゃべりはNG
2. 本気度を見せつけよ
3. 下心で、近づかないこと


一部上場企業のエライさんに「閉鎖的である。大分人歩いた後に草生えず」と言われたことがある。

心当たりがあることもあり、「そうなんだ」と思うこともある。小生は、大分人ではあるが転勤族の子供であり、更に海の向こうで長く暮らしていたこともあり土着のある大分人ではない。

大分県立図書館に行くたびに先哲資料館で大友宗麟公関連の書物を読む。

個人的には、好みのタイプの戦国武将ではない。

大分の人が書いた書物では、地元びいきで書かれているのは当然のことなのだが、宗麟公からは「苦悩」しか感じない。

宗麟公の書物を棚に戻し、小生がゴミを拾い歩く大分市南方の豪族(稙田氏・田尻氏・光吉氏・宗方氏)について読み始める。

非常に興味深い。

個人的には宗麟公以前の大友氏には興味があり、その流れの最後で宗麟公が登場するという感覚である。

大友氏(鎌倉武士団)が豊後に来るのを嫌った「豊後武士団」との戦。

稙田氏は大友につき、大友が勝利した。

豪族の縄張りを囲む山々は全てを目撃し、豪族と民は山々を眺めていた。

その山々を眺めながら、先人へのリスペクトを忘れぬようゴミを拾い歩いている。


残り少なくなった焼酎をぐびっと呷り、「やっぱり大分は麦焼酎ですね」と、彼は言った。

同感だ。

【2017.3.28】孤高のゴミ拾い: 21,450 km/13,328 mi

ゴミを拾い始めた頃、散歩中の保育園の子供ちゃんグループに遭遇し、ゴミを2袋持って歩いている私を見て「ゴミ屋敷の人だぁ」と指をさし、先生が平謝りするということもありましたが、それから4年、今日子供ちゃんに「ゴミ拾いの神様の人だ」と言われました。多分、お爺ちゃんかお婆ちゃんに私のことを聞いたのでしょう。

ゴミ拾いも続けていれば「ゴミ屋敷」から「神様」に変わるのですね。続けていると良いこともあります。
七瀬川自然公園の桜は、ちょっとだけ膨らみ始めました。七瀬川自然公園は寒いので市街地よりも遅いです。
 水分を含んだゴミは重たくて・・・。
今日は天気が良かったので、いつもより多くのワンちゃん達が楽しそうに散歩していました。

畑を耕し夏野菜を植える準備をするKさんやHさんとも久しぶりに立ち話をしました。
皆様のご理解とご協力を宜しくお願い致します。

Monday, March 27, 2017

西寒多神社: 皇室・皇族との関係

大分県内で唯一、国幣中社に劣化された西寒多神社は皇室との関係が深く、皇室行事と関連した祭祀も執り行ってきた。また、皇族方のご参拝も多かった。


下馬下乗の立て札

明治9年(1876)11月、政府の宍戸璣教部大輔宛に皇族方の参拝に備えて下馬下乗の場所選定の伺い書を提出し、あわせて県庁にも同書の本省への進達を求めている。これは、明治7年に政府から下馬下乗の場所を設けるように、という指示を受けてのことである。

同書には略図が添えられていたようだが、残念ながら保存されていない。しかし、その文面から境内中央の石段下一ヵ所であることが推測される。実際、明治37年(1904)発行の『大分県社寺名勝図録』を見ると、拝殿前の階段下に「皇族下馬」「皇族下乗」の二本の立札が描かれている。


有栖川宮親王殿下来県

明治21年(1888)1月14日、有栖川熾仁親王殿下が熊本鎮台兵を検閲した帰途、大分県に立ち寄っている。有栖川殿下は明治15年9月に国典研究、神職養成のために設立された皇典講究所の総裁。

有栖川宮殿下は竹田から久住、野津原を経て大分に到着しているが、西寒多神社にも県から事前に連絡があり、打ち合わせのうえ14日に宮司が野津原で奉迎。さらに旅館に到着した有栖川宮殿下に名刺を差し出して拝謁した。有栖川宮殿下は翌15日、鶴崎で大野川に船を浮かべて鯉漁を御覧になったあと、随行の大佐を招魂社に代参させ、午後4時、菡萏港(西大分港)から船で別府に向かわれた。

なお、禰宜の矢野勘三郎は15日朝、県庁で有栖川宮殿下に拝謁した。矢野は文久2年、薩摩の島津久光(三郎)が兵を率いて上洛した際に随行して、褒められたことがあり、特別に拝謁を許されたのである。


明治天皇崩御

明治45年(1912)7月30日、明治天皇の病状が篤いことが伝わっていたが、午前0時43分崩御との告示が発せられたことが県庁から知らされた。また、皇太子殿下がただちに践祚し神器渡御式を行われ、即位して大正と改元したことも知らされた。

ただちに謹慎の姿勢を示し、神社としての対応を協議した。英照皇太后殿下崩御の際の達しを調べてみたが要領を得ず、とりあえず時報を廃したことが日記に記されている。当時、太鼓を叩いて時を知らせていたのであろう。

県庁から31日以後5日間歌舞音曲を停止し、国旗を掲げる時は上部に黒布を付け、竿頭の玉を黒布で包むように、との通達が届いた。宮司はこの日、村役場に出向いて不例中の国旗の立て方や弔意を表すための服装などを指導した。

8月1日、止めていた時報を再開。6日には県庁から官祭以外の祭典はいつもの通りに行っても差し支えないとの通達が県庁から届いた。

9月12日、地元村長らが来て明治天皇大喪遥拝式の準備を行い、13日の当日はまず神職が祓式をしたあと直ちに献饌。続いて奉悼詞を奏した後、村長が玉串奉奠、拝詞奉読。以後、参列者が順次玉串を奉奠して式を終えた。


大正天皇崩御位

大正4年(1915)11月10日、大正天皇が京都御所紫宸殿で御即位すると、西寒多神社でも御即位奉告祭を執り行った。


長慶天皇皇代御登列奉告祭

大正15年(1926)10月22日、宮中三殿で長慶天皇皇代御登列親告の儀が行われたため、西寒多神社でもこの日、境内の遥拝所で遥拝式を行った。そして同11月1日に東稙田村長や東稙田小学校校長(代理)、在郷軍人分会長、青年団長、寒田区長ら160人と村内の小学校の児童らが参列して御登列奉告祭を挙行。大分中学校の青井常太郎が2時間に亘って講演した。

長慶天皇は後村上天皇の息子で、名は寛成。応安元年・正平23年(1368)ごろ践祚した。足利方と徹底抗戦することを主張したが受け容れられず、永徳3年・弘和3年(1383)、和平派の推す弟の後亀山天皇に譲位した。江戸時代からその即位をめぐって意見が分かれていたが、大正15年に後村上天皇に続いて在位していたことが確認され皇統に列せられた。10月21日の官報で発表され、官国幣社以下神社で祭祀を行うよう達せられた。御登列奉告祭はこれに受けての儀式。


大正天皇の病気平癒祈願と大喪遥拝式

大正天皇は若い頃から御病弱であったが、大正15年12月に重体となられ、同17日、県庁から県下三神社に一斉に平癒の祈願を行うよう通知があった。このため西寒多神社では18日、地元村長や小学校長、在郷軍人会分会長、青年団長らが参列して平癒祈願を執り行った。

同24日、寒田区民全員が参拝し、区長の要望を受けて平癒祈願祭を挙行。午後から県の内務、警察、労務三部長も参拝した。大正天皇御危篤の電報が次々に到着し、その要旨を社頭に掲示して参拝者や氏子に知らせた。

同25日午前1時25分、大正天皇が崩御。その知らせは国民に知らされ、西寒多神社は宮司の名前で宮内庁に哀悼電報を打った。同日、改元し昭和となった。

昭和2年(1927)2月7日、大正天皇の御大喪の儀に合わせて境内の外の芝地で宮司以下全職員が参列して遥拝式を挙行した。東方正面に笹の付いた斎竹を立て、周囲を木綿垂付きの注連縄で囲んだ中央に薦を敷き、玉串台を置いて左右に炬松焼場の穴を掘るなどの式場づくりを行い、新宿御苑での喪場殿の儀に合わせて午後11時に宮司以下全員が参列。宮司が遥拝詞を奏し、玉串を奉奠。禰宜らも順次列拝して遥拝式を終えた。


昭和天皇の御結婚と皇太子(現天皇)の誕生

昭和天皇が皇太子だった大正14年(1924)1月26日に御結婚奉告祭を執り行った。昭和8年(1933)12月23日に皇太子殿下(現天皇)が誕生すると、翌24日、村長や小学校長、区長らが参拝して御降誕奉告祭を執り行った。皇太子殿下の御命名式が行われた。29日には西寒多神社にも多くの参拝者があった。


建武中興六百年祈年祭

昭和9年(1934)3月13日、東稙田小学校5年生以上の児童が参列し、建武中興六百年祭を執り行った。この日に合わせて在郷軍人や寒田区民が神苑や参道に桜や檜の苗木を植樹した。


皇紀二千六百年奉祝祭

昭和15年(1940)10月24日付けで県学務部長から宮司に対して紀元二千六百年式典当日の祭典に関する依命通牒が届いている。それには「十一月十日の紀元二千六百年式典は国を挙げて慶祝し奉るべき皇国の盛典なるを以って当日官国幣社以下神社に於いて寿詞を奏し寶祚の無窮と国運の隆昌とを祈請せしむべく今回内務大臣より訓令・・・・」と、氏子や崇敬者参列の下、盛大に祭典を執行するよう求めている。祭式や祝詞も決められており、浦安の舞を奉奏する場合は祝詞奏上の次とし、市町村が当日行う諸行事については別途国民精神総動員本部から市町村に出された通牒に基いて間違いのないように行うよう命じている。

11月10日午前10時から東稙田村村長や駐在巡査、小学校長、村会議員らが参列して奉祝祭(中祭)を執行。祭典後、竹中村の神楽が舞われる中、祝宴を催し、万歳を唱えた。


菊の御紋章

西寒多神社の建物には他の神社と異なり、菊の御紋章が数多く飾られている。この菊の御紋章の使用は当初、官幣社のみに許されていたが、明治7年(1874)に国幣社にも許可され、区別はなくなった。

昭和12年(1937)5月、内務省神社局長から「社殿工作物の菊御紋章使用に関する照会」が県を通じてあり、6月に回答している。それによると本殿234個、透塀109個、中門8個、拝殿57個、神饌所39個、神庫159個(瓦)、祭器庫(瓦)18個、外門32個、内構玉垣(瓦)4個の計656個となっている。


天皇陛下の姉、池田厚子神宮祭主が参拝

西寒多神社には戦後も皇室にゆかりのある方々が参拝しているが、最近では平成20年(2008)10月29日に、伊勢神宮の池田厚子祭主が参拝し、拝殿で玉串を奉奠した。

[Source: 御遷座六百年史]

時代

老いたる者達が「今時の若い奴らは」と愚痴り、今時の若い奴らは老いたる者達の意見を「古い。時代が違う」と一蹴する。

「KAIさんは、どう思いで?」と愚問答に巻き込まれてしまうのである。

そもそも小生は、物事を古い新しいの尺で考えていることが古いと思っている人種なのだ。

「古い。時代が違う」という今時の若い奴らは、将来100%「今時の若い奴らは」と言う老いたる者になる。

若い人びとが、その力と無知の優越性をもって私たちを笑いものにし、私たちのぎこちない歩き方や、白髪や、皺だらけの首を滑稽だと思うなら、私たちは昔、同じように力と無知をもって老人をせせら笑ったことがあったことを思い出そう。 
そして敗北感を味わうのではなく優越感をもって私たちが年をとってそのような年代を卒業し、ちょっぴり賢くなり、辛抱強くなったと考えよう。
~ヘルマン・ヘッセ~ 

老いたる者達は今時の若い奴らから学び、今時の若い奴らは老いたる者達から学べばよい。

中途半端な年齢の小生は、両者から学んでいるのだ。生まれたての子供ちゃんからも一世紀生きておられる字引からも学ぶ姿勢でいる。

人生学んでなんぼやで。

時代は関係ねぇ。

その意味が理解できなければ、道に落ちているゴミを1,000 km拾ってみるこった。

【弥生27日】孤高の登拝153度目(Going-to-the-God Trail)

丑三つ時の大分市はさほど寒くはなかったものの、雨粒がぽつぽつと落ちるので夜空を見上げると半分雨雲半分星空にハッキリと別れていた。。

西寒多神社に近づくにつれ風は強くなり、境内は落葉が散らかっていた。
いつも通りのルーチンを終え、登拝道に入る。

歩を進めると徐々に気温が下がり始め、展望台につく頃には汗もすっかり冷え、冬場の空気に戻っていた。
空は相変わらず雨雲と星空が半々くらいで、見通しはよく別府湾の反対側の灯りまでハッキリと見えた。

3合目あたりで山の住人の気配をすぐ近くで感じたが、正体は不明。
下りは曇り空でちょっと霞んでいた。
奥宮周辺も風が強く、手足の指先が真冬のように冷たくかんじかんだ。

ゴミ拾いと同じく、一掃きして一つ反省、一掃きして一つ感謝を無言でひたすら繰り返す。

秋から冬にかけては、手を止めることなく三時間以上反省を続けることになる。
それでも反省は尽きることがない。
They are all perfect.
石造/高さ 356 cm/開 240 cm

扁額 本宮社

右柱 
正面 大正十五年十月吉日建之
和田矩八

左柱 
正面 奉納 和田竹馬
石造/高さ 273 cm/開 200 cm

扁額 ??大明神(??は欠落)

右柱
文化十五年 昭和十九年四月再建

※2015年冬に雪で倒れた御神木が鳥居にあたり倒壊したが、すぐに修復。
凄惨な事件が続く日本。そして、わが町大分。

サブリミナル的に民の心を蝕んでいく。
六郷満山峰入りを思う。神聖な場所に「活性化」「アート」といううたい文句でオーパーツのような像が飾られ問題となり、現在も継続中である。

仏道に興味のない人にとっては峰入りの意味などはどうでもよい。

そういう人達が活性化を考え、何かしらの忖度があって実現したことなのであろう。

六郷満山会の「裸体像に意見しない」という言葉が意見だ。
西寒多神社の登拝道や奥宮も同じである。

ゴミや吸殻が捨てられ、マウンテンバイクに荒らされる。(登拝道でのでのマウンテンバイクは禁止行為にはなっていない)

「そんなの関係ねぇ」

ゴミやタイヤ痕がそう言っている。

難しい世の中だ。
前から気配が近づいてきたので道を譲ると、すれ違いに赤い「氣」がお天道様に向かって上っていった。
西寒多神社に戻ってくると、神社の方達とTさんが境内を掃いていた。

神社に限らず宗教施設はどこもキレイに清掃されている。

そこには理由があるわけで、それは町中でも同じことなのではないだろうか。
寒田川の西寒多神社周辺は、禊川とも呼ばれる。

この禊川にもゴミやペットの糞が捨てられる。

「きもち」のある人とない人が共存できる社会とは。

お互いが少しずつ譲り合い、優しくなれればと思っている。
桜のつぼみがボチボチと。
2時間くらい前は、あそこにいた。(
府内大橋の長さは272 m。

【2017.3.27】孤高のゴミ拾い(西寒多神社・奥宮ルート編): 21,435 km/13,319 mi

全体の量としては少なかったですが、登拝道と奥宮内は吸殻が目立ちました。山の中は枯葉が多く危険ですのでやめて頂きたいです。

皆様のご理解とご協力をお願い致します。

Sunday, March 26, 2017

大分ビッグフット

アイダホ州北部のハイウェイで女性が鹿と正面衝突するという事故を起こした。

駆け付けた警察に「ミラー越しにビッグフットを目撃し気を取られ、飛び出してきた鹿に気付かなかった」と証言した。

一応、警察も調べてみたのだが、ビッグフットの証拠は見つからなかった。

真相はいかに。

いつも1967年に北カリフォルニアで撮影されたビッグフットの写真が参考資料として使われる。

ビックフットに関する組織は全米、各州に存在しカンファレンスも開催されている。目撃者は沢山存在するも、残念ながら「しっかり」と目撃・記録した人がいないのだ・・・なぜか。そして、偽物が多い。
大分県と宮崎県の県境にある標高1,756mの祖母山で、たまに熊の目撃情報が出で騒ぎになりしばらくしてフェードアウトを繰り返す。

直近では、2011年に女性登山者1名が「クマらしき動物」を目撃した。

ワシントン州の国立公園でレンジャーをしている知人に聞いてみたところ、クマの目撃情がありすぐに犬そ放てば終えるということだった。それと、クマの痕跡は見つけやすいのでミステリーにはならないのではないかと。ただ、レンジャーが言うクマはグリズリーで、ツキノワグマではない。

もしかしたらビッグフットだったのかもしれない。九州にいるとしたら祖母山しかない。

という小生も、ワシントン州の山の中でグリズリーに追いかけられちびるというヘタレ武勇伝持つ。


クマに会ってしまった時は、

逃げるべきか・・・

闘うべきか・・・

それとも観察するべきか。

一度逃げて後をつけてみよう。

Saturday, March 25, 2017

Ifと畏怖

ネバダ州でオオカミの生息が確認された。前回確認されたのは1922年のこと。
ネバダ州フォックスマウンテンの近く、カリフォルニア州境から20マイル地点で、カリフォルニア州で暮らしていた「Shasta Pack」と呼ばれる7頭の群れの1頭のオスの糞が発見された。

ここ数年の干ばつで北カリフォルニアの生態系も大きく変化したのだろう。
この冬(2016-17)イエローストーン国立公園で殺されたバイソンは1201頭。

748頭が射殺され、453頭がネイティブアメリカンとモンタナ州のハンターによって殺処分された。2008年以降最大数。

3,000頭が適正とされているが、現在は5,500頭である。アメリカ・カナダの国有地に20,000頭が放牧されている。
以前、ネブラスカ州の新聞を読んでいたら、バイソンの牧場主が、広大な土地を探しているという記事を見つけた。日本のひとつの市町村くらいの面積は欲しいところ。

20年くらい前にバイソン(バッファロー)のバーガーを食べた。ジャーキーも美味い。大分では食べれるのだろうか?小生が食べたのは、ネイティブアメリカンの店。

1 lb.(0.45kg)の値段は、$12-16

バッファローの骨は、「Plains Oak」という燃料になり、糞はクリーンで無臭で良質の肥料になるのだそうな。

ネイティブアメリカン・スタイル。かつては、食用としてだけではなく、毛皮は服・靴・テントなど、骨は矢じりに利用された。今でもネイティブが、バッグなどを作っている。農耕文化を持たなかったこの地に住むネイティブは、生活のすべてをバイソンに依存していた。

写真(↓)は、肥料にするためのアメリカンバイソンの頭骨の山。(1870年代中期)
イエローストーンでバイソンの群れに遭遇したことがあり、その勇壮な迫力に感動し体が熱くなった。野生馬の群れにも感動した。

日本人にはなじみの薄い動物だが、ネイティブにとっては絶対的な存在である。

大分の「アフリカンサファリ」でアメリカンバイソンを見るとこができる。アフリカに生息しないバイソンが、なぜアフリカンサファリにいるのかは不明。


イエローストーン国立公園では、生まれたばかりのバイソンの赤ちゃんを観光客が助け、その結果育児放棄をまねき、安楽死させられてしまった。

バイソン・エルク・ビッグホーンシープ・シカ・ムースなどの大型野生動物には、25ヤード(≒23m)以内に接近してはならないルールがある。また、コヨーテ・熊・オオカミからは100ヤード(≒91m)以上離れなければならない。
人間と野生動物の距離感が、詰まってきているのは大分も同じこと。

動物園などビジネス的な差別化で縮まる距離感も気になり、更にエスカレートしていくのかもしれない。
***

数年前に日本でもおなじみのミネラル・ウォーター「Crystal Geyser」の水源がピンチだと言うニュース記事を読み、その後の更なる破壊的大干ばつで大変危険な状態に陥った。
2015年1-6月の「深刻な干ばつランキングワースト 9」は、全てカリフォルニア州に集中した(KAI's MAGAZINEより)
1. Hanford, CA
例外的に厳しい干ばつ範囲: 100%
極めて厳しい干ばつ範囲: 100%
人口: 87,941

2. Merced, CA
例外的に厳しい干ばつ範囲: 100%
極めて厳しい干ばつ範囲: 100%
人口: 136,969

3. Modesto, CA
例外的に厳しい干ばつ範囲: 100%
極めて厳しい干ばつ範囲: 100%
人口: 358,172

4. Fresno, CA
例外的に厳しい干ばつ範囲: 100%
極めて厳しい干ばつ範囲: 100%
人口: 654,628

5. Yuba City, CA
例外的に厳しい干ばつ範囲: 95.4%
極めて厳しい干ばつ範囲: 100%
人口: 116,719

6. Lancaster-Palmdale, CA
例外的に厳しい干ばつ範囲: 87.9%
極めて厳しい干ばつ範囲: 100%
人口: 341,219

7. Chico, CA
例外的に厳しい干ばつ範囲: 85.3%
極めて厳しい干ばつ範囲: 100%
人口: 98,176

8. Sacramento, CA
例外的に厳しい干ばつ範囲: 78.3%
極めて厳しい干ばつ範囲: 100%
人口: 1,723,634

9. Bakersfield, CA
例外的に厳しい干ばつ範囲: 72.8%
極めて厳しい干ばつ範囲: 100%
人口: 523,994

水源地は、カリフォルニア州北部に鎮座するスピリチュアルな標高4,322 mの「マウント・シャスタ」にあり、サクラメント川を下りサンフランシスコ・ベイリアの生活を支える生命線である。深刻な干ばつだった「Chico(7位)」「Yuba City(5位)」「Sacramento(8位)」を通ってベイエリア方面に流れていく。
水源のある「シスキュー郡」の人口は、ネイティブアメリカンを含めて3,994人。彼らは、異常気象・干ばつによる水不足、企業による水資源プラント工場建設、調査・説明不足の先が見えない自治体のプロジェクトにより、スピリチュアルな「マウント・シャスタ」の自然破壊と聖なる水を失うことを危惧している。古くからこの地に住むネイティブアメリカンは、自然の恵みで経済活動を行うことを嫌うのだ。
「経済効果」「活性化」というメリットは勿論のこと。

第1ラインは、1日平均115,000ガロンの水をミネラルウォーター、ジュース、フレーバーティー、ミントドリンクに。第2ラインは、1日平均217,000ガロン(最大365,000ガロン)を使用できる。(2013)

その内、コカコーラ社が250,000-300,000ガロンを使用するということだったが、2014年9月に向けて新たなプランを打ち出したことで問題となった。
「経済的ストレスを抱える郡」で全米ワースト14位にランク(2014)されるこの地に雇用機会を作り、税金を落としてくれるメリットがある反面、そのツケも支払わなければならない。ゴールドラッシュ時代と同じく、カリフォルニアの水を求めて企業が群がってきているのだ。

[2013.11.1]
[2014.1.4] 雪は減少している
マウント・シャスタの水資源は、シスキュー郡と企業の問題だけではない。サンフランシスコ周辺の生活にも関わる重要問題なのだ。企業・自治体は、「何ら問題ない」とコメントしていたが、ここ数年の大干ばつで「問題ある」ことが明らかになった。

ロッキー山脈周辺などでも水不足が心配される昨今、確実に自然破壊は進行している。

果たして大分の水は大丈夫なのだろうか?

水資源に恵まれている大分の民が水に対して意識が薄いということは、大分川・七瀬川沿いのゴミを毎日拾う小生は身を持って感じている。子供達にだけではなく、もっともっと水資源の大切さについて教育するべきだと思っている。スマホがなくても生きていけるが、水がなければすぐに死んでしまうことを。水で戦争が起こることも。


昨年、アメリカでは初めて炭酸飲料より水(ボトル)が多く飲まれ、アメリカで一番飲まれた飲料になった。

1人あたりの年間平均

2016
飲んだ水(ボトル)の量: 39.3ガロン(148.8ℓ)
飲んだ炭酸飲料の量: 38.5ガロン(145ℓ)

2015
飲んだ水(ボトル)の量: 36.5ガロン(138.2ℓ)
飲んだ炭酸飲料の量: 39ガロン(147.6ℓ)

[Source: Beverage Marketing Corp.]
小生は活動家ではないが、ゴミを拾いながら世界のニュースをチェックし自分なりに勉強し考える様にはなった。特に東日本大震災以降。

また、自然への畏怖について深く感じるようになってきた。

日本の神様は、我々が間違った方向に進もうとすると試練を与えるのだ。

1日に1度は、自然の「If」と「畏怖」について考えよう。

「経済活動」と「自然保護」のバランスが保たれ、大分県と企業が共に繁栄することを願う。

西寒多神社: 豊臣秀吉関連古文書

豊臣秀吉直書状(直書)写 天皇の意を受けて、関白秀吉が大友氏と島津氏との和睦を勧告したもの。 日付、宛名はないが、これとほとんど本文が同じ文書が天正13年(1585)10月2日付けで秀吉から島津氏宛に出されている。 本文書は同日付で秀吉から大友宛に出された「惣...