Monday, March 27, 2017

西寒多神社: 皇室・皇族との関係

大分県内で唯一、国幣中社に劣化された西寒多神社は皇室との関係が深く、皇室行事と関連した祭祀も執り行ってきた。また、皇族方のご参拝も多かった。


下馬下乗の立て札

明治9年(1876)11月、政府の宍戸璣教部大輔宛に皇族方の参拝に備えて下馬下乗の場所選定の伺い書を提出し、あわせて県庁にも同書の本省への進達を求めている。これは、明治7年に政府から下馬下乗の場所を設けるように、という指示を受けてのことである。

同書には略図が添えられていたようだが、残念ながら保存されていない。しかし、その文面から境内中央の石段下一ヵ所であることが推測される。実際、明治37年(1904)発行の『大分県社寺名勝図録』を見ると、拝殿前の階段下に「皇族下馬」「皇族下乗」の二本の立札が描かれている。


有栖川宮親王殿下来県

明治21年(1888)1月14日、有栖川熾仁親王殿下が熊本鎮台兵を検閲した帰途、大分県に立ち寄っている。有栖川殿下は明治15年9月に国典研究、神職養成のために設立された皇典講究所の総裁。

有栖川宮殿下は竹田から久住、野津原を経て大分に到着しているが、西寒多神社にも県から事前に連絡があり、打ち合わせのうえ14日に宮司が野津原で奉迎。さらに旅館に到着した有栖川宮殿下に名刺を差し出して拝謁した。有栖川宮殿下は翌15日、鶴崎で大野川に船を浮かべて鯉漁を御覧になったあと、随行の大佐を招魂社に代参させ、午後4時、菡萏港(西大分港)から船で別府に向かわれた。

なお、禰宜の矢野勘三郎は15日朝、県庁で有栖川宮殿下に拝謁した。矢野は文久2年、薩摩の島津久光(三郎)が兵を率いて上洛した際に随行して、褒められたことがあり、特別に拝謁を許されたのである。


明治天皇崩御

明治45年(1912)7月30日、明治天皇の病状が篤いことが伝わっていたが、午前0時43分崩御との告示が発せられたことが県庁から知らされた。また、皇太子殿下がただちに践祚し神器渡御式を行われ、即位して大正と改元したことも知らされた。

ただちに謹慎の姿勢を示し、神社としての対応を協議した。英照皇太后殿下崩御の際の達しを調べてみたが要領を得ず、とりあえず時報を廃したことが日記に記されている。当時、太鼓を叩いて時を知らせていたのであろう。

県庁から31日以後5日間歌舞音曲を停止し、国旗を掲げる時は上部に黒布を付け、竿頭の玉を黒布で包むように、との通達が届いた。宮司はこの日、村役場に出向いて不例中の国旗の立て方や弔意を表すための服装などを指導した。

8月1日、止めていた時報を再開。6日には県庁から官祭以外の祭典はいつもの通りに行っても差し支えないとの通達が県庁から届いた。

9月12日、地元村長らが来て明治天皇大喪遥拝式の準備を行い、13日の当日はまず神職が祓式をしたあと直ちに献饌。続いて奉悼詞を奏した後、村長が玉串奉奠、拝詞奉読。以後、参列者が順次玉串を奉奠して式を終えた。


大正天皇崩御位

大正4年(1915)11月10日、大正天皇が京都御所紫宸殿で御即位すると、西寒多神社でも御即位奉告祭を執り行った。


長慶天皇皇代御登列奉告祭

大正15年(1926)10月22日、宮中三殿で長慶天皇皇代御登列親告の儀が行われたため、西寒多神社でもこの日、境内の遥拝所で遥拝式を行った。そして同11月1日に東稙田村長や東稙田小学校校長(代理)、在郷軍人分会長、青年団長、寒田区長ら160人と村内の小学校の児童らが参列して御登列奉告祭を挙行。大分中学校の青井常太郎が2時間に亘って講演した。

長慶天皇は後村上天皇の息子で、名は寛成。応安元年・正平23年(1368)ごろ践祚した。足利方と徹底抗戦することを主張したが受け容れられず、永徳3年・弘和3年(1383)、和平派の推す弟の後亀山天皇に譲位した。江戸時代からその即位をめぐって意見が分かれていたが、大正15年に後村上天皇に続いて在位していたことが確認され皇統に列せられた。10月21日の官報で発表され、官国幣社以下神社で祭祀を行うよう達せられた。御登列奉告祭はこれに受けての儀式。


大正天皇の病気平癒祈願と大喪遥拝式

大正天皇は若い頃から御病弱であったが、大正15年12月に重体となられ、同17日、県庁から県下三神社に一斉に平癒の祈願を行うよう通知があった。このため西寒多神社では18日、地元村長や小学校長、在郷軍人会分会長、青年団長らが参列して平癒祈願を執り行った。

同24日、寒田区民全員が参拝し、区長の要望を受けて平癒祈願祭を挙行。午後から県の内務、警察、労務三部長も参拝した。大正天皇御危篤の電報が次々に到着し、その要旨を社頭に掲示して参拝者や氏子に知らせた。

同25日午前1時25分、大正天皇が崩御。その知らせは国民に知らされ、西寒多神社は宮司の名前で宮内庁に哀悼電報を打った。同日、改元し昭和となった。

昭和2年(1927)2月7日、大正天皇の御大喪の儀に合わせて境内の外の芝地で宮司以下全職員が参列して遥拝式を挙行した。東方正面に笹の付いた斎竹を立て、周囲を木綿垂付きの注連縄で囲んだ中央に薦を敷き、玉串台を置いて左右に炬松焼場の穴を掘るなどの式場づくりを行い、新宿御苑での喪場殿の儀に合わせて午後11時に宮司以下全員が参列。宮司が遥拝詞を奏し、玉串を奉奠。禰宜らも順次列拝して遥拝式を終えた。


昭和天皇の御結婚と皇太子(現天皇)の誕生

昭和天皇が皇太子だった大正14年(1924)1月26日に御結婚奉告祭を執り行った。昭和8年(1933)12月23日に皇太子殿下(現天皇)が誕生すると、翌24日、村長や小学校長、区長らが参拝して御降誕奉告祭を執り行った。皇太子殿下の御命名式が行われた。29日には西寒多神社にも多くの参拝者があった。


建武中興六百年祈年祭

昭和9年(1934)3月13日、東稙田小学校5年生以上の児童が参列し、建武中興六百年祭を執り行った。この日に合わせて在郷軍人や寒田区民が神苑や参道に桜や檜の苗木を植樹した。


皇紀二千六百年奉祝祭

昭和15年(1940)10月24日付けで県学務部長から宮司に対して紀元二千六百年式典当日の祭典に関する依命通牒が届いている。それには「十一月十日の紀元二千六百年式典は国を挙げて慶祝し奉るべき皇国の盛典なるを以って当日官国幣社以下神社に於いて寿詞を奏し寶祚の無窮と国運の隆昌とを祈請せしむべく今回内務大臣より訓令・・・・」と、氏子や崇敬者参列の下、盛大に祭典を執行するよう求めている。祭式や祝詞も決められており、浦安の舞を奉奏する場合は祝詞奏上の次とし、市町村が当日行う諸行事については別途国民精神総動員本部から市町村に出された通牒に基いて間違いのないように行うよう命じている。

11月10日午前10時から東稙田村村長や駐在巡査、小学校長、村会議員らが参列して奉祝祭(中祭)を執行。祭典後、竹中村の神楽が舞われる中、祝宴を催し、万歳を唱えた。


菊の御紋章

西寒多神社の建物には他の神社と異なり、菊の御紋章が数多く飾られている。この菊の御紋章の使用は当初、官幣社のみに許されていたが、明治7年(1874)に国幣社にも許可され、区別はなくなった。

昭和12年(1937)5月、内務省神社局長から「社殿工作物の菊御紋章使用に関する照会」が県を通じてあり、6月に回答している。それによると本殿234個、透塀109個、中門8個、拝殿57個、神饌所39個、神庫159個(瓦)、祭器庫(瓦)18個、外門32個、内構玉垣(瓦)4個の計656個となっている。


天皇陛下の姉、池田厚子神宮祭主が参拝

西寒多神社には戦後も皇室にゆかりのある方々が参拝しているが、最近では平成20年(2008)10月29日に、伊勢神宮の池田厚子祭主が参拝し、拝殿で玉串を奉奠した。

[Source: 御遷座六百年史]

Saturday, March 11, 2017

西寒多神社: 明治初期、大分県に怒られる(拝殿・神饌殿・神庫の建て替えの件)


西寒多神社は、明治4年(1871)に国幣中社に列せられたころは、神殿を初めとする各建物は古くてみすぼらしく、とうてい国幣中社の名に値するものではなかったようだ。神社側としては、対面の上からも国幣中社にふさわしい体裁を大急ぎで整えようとしたフシがうかがえる。そんな中で神殿は官費1,026円で新築されることになり、明治15年に建替えられた。

しかし、拝殿や神饌殿、神庫の建て替えまでは官費が出ないため、明治11年(1878)2月、当時の神官は費用の寄付を募ることにし、地方有力者に「迷惑はかけないから」と名義上だけの願主となってもらい、寄付集めを始めた。願主は拝殿が大分郡旦ノ原村の高山宇吉と同鴛野村の笠木勘三郎、神饌殿が大野郡百枝村の神田種嗣と同浅瀬村の神田住盛、神庫が大分郡寒田村の卜部尚連、佐藤七郎、佐藤清の3人である。この3人は神社と深い関係の家柄である。

各願主は形の上で、西寒多神社に対してそれぞれ拝殿(縦二間半、横四間半)、神饌殿(縦二間、横三間半)、神庫(縦二間、横三間)の新築寄進願いを出し、実際に寄付集めを始めた。神庫の場合、11年1月に桁行三間、梁行二間の瓦葺の建物を建てることになり、間もなく工事を始めた。5月には上棟式を行っており、あまり日数を置かないうちに完成したものとみられる。拝殿や神饌殿の工事は寄付金の集まり具合の関係からか、工事は遅れたようだ。

その後、県の担当者が工事状況を視察し、願主らに厳しく工事の遅れを指摘し、早めるように言い渡した。工事を仕上げるにはまだ500円ばかり不足で、それを集める目途も立たないことから、驚いた願主たちは17年(1884)7月、「話が違う」として別々に西寒多神社に対して寄進願いを取り下げる嘆願書を提出した。西寒多神社側は改めて全員連名の嘆願書を提出させ、添書きとともに県に提出し、以後、官費で工事を続けて完成してくれるよう要請した。

県から厳しい叱責を受けたが、結局、官費で工事を仕上げてくれることになり、同年8月、造営世話人佐藤綾太郎ら14人を仲立ちとしてほぼ出来上がっていた拝殿と神饌殿、神庫各1棟を引き取った。

以後、官費によって内部の造作や装飾が施されて完成した。ただし、神庫は途中で祭器庫に変更され、神庫は改めて新築されることになった。

[Source: 御遷座六百年史]

Thursday, March 9, 2017

西寒多神社: 国家神道の歩み(明治維新~太平洋戦争)

明治維新は、王政復古と祭政一致の精神に基く国家の樹立を目標とするものだった。その思想的中核は尊皇思想と神道思想であり、新政府樹立以前から「神武創業の古」に服するべく、神道を国教化しようという動きがあった。大政奉還、王政復古の数ヵ月後の慶応4年(明治元年/1868)3月、政府は神祇官の復興や「別当社僧復飾令」を初めとする一連の法令つまり「神仏分離の令」が布告され、神道による国民強化を強く打ち出した。祭政一致を実現するため律令時代にならって太政官とは別に神祇官を設けたのである。

この神仏分離令によって神社と寺院、神職と僧侶を完全に分離した。具体的には神職の世襲を禁止するとともに神宮寺や宮寺の建立や仏像を神体としてはならないこと、神仏習合的な祭神を禁止し、牛頭天王、菩薩、権現などの名称を神社の祭神として用いることができなくなった。また、神社で僧侶の外見をして別当や社僧と名乗っていたものは、還俗したうえで神主、社人として神社に奉仕するか、還俗しない者は神社を退去しなくてはならなくなった。

西寒多神社では江戸期、佐藤一族が歴代神主をつとめてきたが、これにより世襲が廃止され、外部から赴任してくることになった。

次いで明治2年(1869)7月、神祇官を太政官から独立させて、太政官の上に置いた。そして同10月に宣教師を神祇官に所属させ、神道の不況に当たらせた。同3年1月に「大教宣布」が出されて、「惟神の道」の強化が求められた。長年続いた神仏習合は仏教伝来とともに始まり、民間信仰レベルではまったく判然としないほど密接に結びついていた。

この一連の神仏分離政策で、民衆の行き過ぎた廃仏毀釈運動が広がり、政府は神職に対して廃仏を否定し、行き過ぎた運動を注意した。しかし、地方では地方官によって廃仏毀釈運動が進められ、多くの寺院や仏像が破却された。

明治4年(1871)5月14日、近代社格制度がスタートした。神社の国家管理を急速に進め、神社を「国家の宗祀」の場と位置づけ、神職の世襲を禁止し、主要神社神職の公務員化を推し進めたのである。更に、律令神祇制度を参考にして新たに神社制度を整備した。太政官布告「官社以下定額・神官職制等規則」によって、全国の神社を大きく官社と諸社に分けた。

この時、官社には97社が列格されたが、この官社は神祇官が祀る官幣社と地方長官が祀る国弊社に分けられ、いずれも大社、中社、小社に区分された。官幣社は天皇家にゆかりの深い神社が多く、国弊社にはかつての一宮、つまりその地方で特に尊崇されていた神社が多く含まれていた。両方の間に実質的に差異はなかったが、官幣社には例祭に皇室から幣帛料が出されたのに対して国弊社には政府から支出された。

また当初、菊の御紋は官幣社のみに許されていたが、明治7年に国幣社の社殿にも許可されるようになった。その翌年、これとは別に国難に際して勲功を立てた功臣を祭った神社を別格官幣社とする制度が導入された。

こうした近代社格制度によって大分県関係では西寒多神社のみが国幣中社に位置付けられた。九州で国幣中社に列格されたのは西寒多神社以外では佐賀県の田島神社と長崎県の住吉神社と海神神社の三社だった。また、宇佐神宮が別格官幣大社に列せられた。

官幣社、国幣社の名称は延喜式の社格を踏襲したものである。諸社は府社、県社、郷社および村社などからなっていた。府、県社、郷社は郷村の産土神社とされた。郷社の付属下に村落の氏神を置き、これを村社としたが、村社に至らなかったものは無各社となった。

同年8月、神祇官が廃止されて神祇省が設けられたが、翌5年3月にはその神祇省に代わって教部省が設置され、神道国教主義に基く国民強化のための統一的組織的な統括機関となった。この教部省は神官や僧侶を教導職に任命し、一大教化事業を開始した。教導職は、

第一条、敬神愛国ノ旨ヲ体スベキ事

第二条、天理人道を明二スベキ事

第三条、皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシム可キ事

という「教則三条」を奉じて教化活動すべきものとされた。西寒多神社にはその実物が保存されている。
大教宣布の機関として東京に大教院、地方に中教院が設置され、各神社には説教所が設けられて小教院とみなした。

神官は神社の祭祀を執り行うほか、国教である神道の不況に努めることが義務付けられていた。その神官についても祭主、大宮司、少宮司、禰宜、主典、官掌などの階級が設けられ、国家組織の中に組み込まれた。官国幣社の神官は当初を本官だったが、明治20年(1887)に待遇官吏となり神職と呼ぶようになった。しかし宮司1人と権宮司1人は奏任官待遇で、内務大臣の奏請により内閣において任命。禰宜1人と主典、官掌は判任待遇で地方長官(知事)が任命した。府県社や郷社の神職は氏子総代の推薦により地方長官が任命した。

大分県内では6年3月に僧侶24人が、次いで同年6月に神道側から西寒多神社禰宜首藤宗令(周三)ほか主要神社の神官、神職32人が長崎に招集されて指導をうけたのち教導職試補に命じられた。そして、神仏各宗合同で地域ごとに布教を始めた。

明治7年(1874)10月には現在の大分市の江雲寺に神道と仏教7宗派合同の教育機関として中教院を発足させた。院長6人、副院長11人で、そのうち西寒多神社の神官が院長に3人、副院長4人入っており、神道側の主導権のもとに運営されたことがわかる。

西寒多神社にも小教院が設置された。当時の見取り図を見ると、現在の神楽殿と厳島社の間に「小教院」の建物が描かれている。おそらく既存の建物を充てたものと思われる。しかし、神仏分離運動が進み、8年2月に大教院が解散したのに伴って中教院や小教院も解散した。
明治8年、式部寮によって「神社祭式」が制定された。これがいわゆる「明治祭式」で、官国幣社の祈念祭、新嘗祭、官国幣社列祭の祭式、祝詞、神饌について細かく規程した。また官国幣社がすべて行うものとして元始祭、後月輪東山陵(孝明天皇)遥拝、紀元節、畝傍山東山陵(神武天皇)遥拝、新嘗祭遥拝、仮殿遷座、本殿遷座が掲げられ、それぞれの祭式次第、祝詞などが詳細に定められた。参拝の作法「二拝二拍手一拝」が定められた。西寒多神社では同年7月に遥拝所の設置を申請して、11月に認められており、おそらくこの「神社祭式」の制定に対応したものと思われる。

教部省は明治10年(1877)1月まで存続したあと、新設の内務省社寺局に移管された。同15年には神官の教導職を廃止し、17年には官国幣社の神官が葬儀に関与することを禁じた。また、教派神道の神道事務局からの独立を認め、僧侶や神道各教派教師の任免や進退を全て各教派宗派の管長に委ねた。これらは神社神道を非宗教家するための体裁を整えるためだった。

明治20年(1887)3月、政府は7年にスタートさせた官国幣社経費定額制度を改めて官国幣社保存金制度を導入し、全官国幣社に対して向こう16年間一定額を交付し、その積立金を神社維持の資本金とさせ、15年後には幣帛料を除いて国庫からの支出を打ち切ることを予告した。この制度の変更が、西寒多神社の運営に実際にどのような影響を及ぼしたのかは不明である。西寒多神社にはこれらの経費と関係すると思われる次の文書が残されていう。


西寒多神社

明治十一年度神社経費金之義十年十二月第九拾壱号ヲ以神官ヲ廃シ更ニ祭主以下職員官等想定候ニ付テハ神官俸給及ヒ賜饌料其他減額可相成分ヲ除之外総テ同年五月第四拾弐号達之通相定候条成規ニ照準シ右ヲ以一周年ノ費額支辧可致旨太政官ヨリ被相達候条及達示候事

但本文減額ニ係ル文及大科目金流用ヲ要スル分ハ往復日数ヲ除ク之外七日限リ取調可差出来事

明治十一年五月九日

大分縣権令香川眞一 印


明治27年(1894)、官国幣社の祭祀が大祭と公式祭祀の2種類に分けられた。大祭は祈年祭、新嘗祭、例祭、臨時奉戴式、本殿遷座など、公式祭祀は原始祭、紀元節、大祓、遥拝式、仮殿遷座、神社由緒祭などで、大祭には勅使あるいは地方長官が参向して神饌幣帛料を供進することになった。これは祭祀大権は天皇の統治権の一つとの考えのもとに、それを勅使や地方長官に代替発動させるものだった。

明治後半の西寒多神社への勅使参向事例としては、明治22年2月21日の憲法発布奉告祭に県書記官関慎吾、37年2月24日の日露戦争宣戦奉告祭に県知事大久保利武、38年12月15日の平和克復奉告祭に県知事小倉久などがある。

明治27年、内務省訓令で祭祀区分が官国幣社の大祭と官国幣社の公式の祭祀、府県社以下神社の大祭及び公式の祭祀に3区分された。官国幣社の大祭は祈念祭、新嘗祭、例祭、臨時奉幣式、本殿遷座。公式の祭祀は原始祭、紀元節、大祓、遥拝式、仮殿遷座、神社に特別の由緒ある祭祀。府県社以下の神社はこれに準じる、とされた。

内務省社寺局は明治33年(1900)4月、神社局と宗教局に分かれ、神社行政は神社局、神道教派と仏教宗派は宗教局が担当するようになった。そこには神社神道は宗教ではない、との政府の立場が反映されており、「神社は国家施設」とされた。

明治39年(1906)、「官国幣社経費に関する法律」が定められ、それまでの保存金制度を解消して国庫から供進(補助)されるようになった。明治41年には「神社財産に関する件」という法律が公布され、全国の官幣社、国幣社の経費は国庫負担とし、府県社や郷社に対しても祭礼などにともなう費用は府県や市町村から支給されることになった。

これより前の39年8月、「神社寺院仏堂合併跡地譲与に関する件」という勅令が出され、全国規模で神社の統廃合が始まった。有力な地方自治体の創出と並行して経費削減のため一町村一神社を目途に神社の統廃合を進めたのである。

大正2年(1913)には宗教局のみ文部省に移され、神社行政と宗教行政が完全に分離された。この年、官国幣社以下神社神職奉務規則と、事務手続きの集大成法と言える官国幣社以下神社の祭神、神社名、社格明細帳、境内、創立、移転、廃合、参拝、拝観、寄付金、講社、神札、などに関する件が公布された。

また翌3年には官国幣社以下神社祭祀令・同祭式が公布された。これにより神社祭祀は大祭、中祭、小祭に分けられた。具体的な区分は大祭が祈念祭、新嘗祭、例祭、遷座祭、臨時奉幣祭、靖国神社合祀祭。中祭が歳旦祭、原始祭、紀元節祭、天長節祭、神社に特別の由緒ある祭祀。小祭はそれ以外のものだが、その他諸と呼ばれるものもある。地鎮祭、起工式、七五三、祈雨祭、慰霊祭などがそれである。この祭祀区分は戦後、神社本庁の祭祀規程に継承され、各神社の参考にされている。

その後、昭和15年(1940)、皇紀2600年を機に内務省神社局は廃止されて、内務省の外局として神祇院が設置され、神社にかかわる独立した中央官庁が復活した。

[Source: 御遷座六百年史]

Tuesday, March 7, 2017

西寒多神社: 一ノ鳥居/ニノ鳥居/御神幸所

一ノ鳥居跡

大分市富岡459番地の5の地先(旧国道10号)冨岡街道に明治9年(1876)に建立された。

しかし、残存していないため、存在していたこと事態知らない人が増えている。

『大分の鳥居』(高原三郎著)によると、鳥居には毛利空桑書の「明徳及黎民 萬禾?惟聲」と書かれていた、とされるが、昭和30年1月に道路の拡幅舗装工事のため撤去された。そのため、大きさ形式などを確認できない。撤去された際、基石部分を引き取って保存している人がいると伝えられているが不明。
二ノ鳥居(下寒田)

一般には下寒田にある鳥居が一ノ鳥居と思われているが、それは一の鳥居が既に撤去されているためで、この鳥居は正確には二ノ鳥居である。

大正13年(1924)4月、瀧尾村の田崎延作と東稙田村の廣瀬柳太郎の寄進。同年1月、2人から「鳥居建替寄進願」が出されている。それによるとそれまであった木製の鳥居が腐朽して同12年夏に倒壊したため、鉄筋コンクリート製の鳥居に建替えて奉納したいと願い出ている。

工事は大正13年4月に完成し、5月13日、更に7月7日へと延期された。その理由は不明。当日は、東稙田村長首藤忠四郎や寒田区長操生堅太らが出席し、中祭に準じて祓式と奉告祭を行った。

設計書には、高さは「笠木上端迄二十七尺」「巾柱ノ真々 二十尺、地下六尺」「柱大サ直径 二尺」とある。建替え費用は、1,509円40銭。

実測は、高さ6.3メートル、幅5.4メートル。
八幡田御神幸所(頓宮)

現在は七瀬川の河川改修工事で河川敷となってなくなったが、大分市下宗方の八幡田地区に西寒多神社の御神幸所があった。神幸祭の折に神輿が行幸する場所だった。八幡田の地名そのものが西寒多神社や柞原神社との歴史的な関係を思わせるものである。一説には、かつては八幡殿と言っていた、との説もある。
八幡田は臼杵藩領で、青筵買い付けの会所が置かれていた。臼杵藩領に頓宮が営まれたのは、西寒多神社の神領があったためと推測されるが、裏付け資料はない。
明治8年(1875)12月、宮司田近陽一郎は大分県令森下景端に『頓宮地之儀ニ付願』を提出し、正式に西寒多神社の付属地として認めてくれるよう、図面を添えて上申している。

明治9年3月、この願いは認められ、改めて土地の丈量図面を県に提出している。それによると場所は八幡田河原で、広さは5反1畝16歩とある。

以後、4月15日の例祭にはこの八幡田河原の神幸所に行幸をすることになった。

しかし、神社所有地の明細書に記入漏れだったらしく、明治45年(1912)5月に改めて追加している。その面積は8畝とあり、明治8年の時よりかなり狭くなっている。

明治12年(1879)11月、八幡田神幸所に下宗方村の釘宮清衛の寄進により神殿と石灯篭、手水鉢が完成した。費用は279円37銭。しかし、15年8月21日の暴風雨で倒壊し、流失してしまった。その後まもなく仮殿が造宮されたようだが、明治26年1月にはそれを寒田川沿いの郷ノ城河原に移した。この時、釘宮清衛が寄進した石灯篭と手水鉢も移された。

明治12年から24年にかけて八幡田の御神幸は5日間ないし7日間催されていた。同24年4月26日の日記に「競馬賑ナリ凡馬二百頭許」とあり、大いに賑わっていたことがわかる。


郷ノ城御神幸所(お旅所

八幡田から郷ノ城河原に移した御神幸所の仮殿も明治28年(1895)7月24日に暴風雨のために転倒してしまった。

このため明治29年4月に再び新築した。同37年12月の神社明細書によると仮殿は桁行、梁行も三間の破風造りで、平屋の社務所(桁行三間、梁行一間五合)も建てた。一対の石灯篭と手水鉢は八幡田御神幸所から移した。

昭和12年(1937)3月、東稙田村長と寒田区長、田尻区長の3人が連名で、西寒多神社宮司に対して、村中央の田尻河原に神幸してくれるよう、変更願を提出している。その理由は、郷ノ城では場所が不便で参拝者が少なく、御神慮に申し訳ないため、としている。

田尻河原に行幸が行われたのは昭和12-13年の2年間に過ぎなかった。人々はその地を高見公園と呼んでいた。場所は田尻橋の南側の上流部の河原だった。その後、再び郷ノ城御神幸所に行幸するようになった。

しかし、昭和30年(1955)頃、同御神幸所の跡地を売却。寒田公民館をお旅所とした。

八幡田御神幸所から移された石灯篭と手水鉢などは、現在、寒田区公民館(お旅所)の敷地内に安置されている。
ドイツ人捕虜が参拝

第一次世界大戦で日本が戦ったドイツ人の捕虜141人が大正3年(1914)12月から7年8月まで大分市内の俘虜収容所(金池小画工内)に収容されていた。西寒多神社の記録を見ると、そのドイツ人捕虜が前後5回、西寒多神社を参拝している。最初は、大正4年10月13日で100人。2回目が、大正5年3月9日の80人で、参拝のあと稙田村木上の少林寺に向かった。平成19年にこの時の写真が見つかり、大分合同新聞に掲載された。

3度目は同5月5日で85人が参拝。12月19日の4度目には120人が参拝した。大正7年4月5日には120人の捕虜が楽隊に合わせてパレードしながら参拝し、境内各所に散らばって折詰弁当を食べ「学童ノ遠足ニ弁当ヲ開クニ髣髴タリ」という状況だった。

売店で洋酒を飲んだり果物を食べる姿は「恰モ活動写真ヲ見ルが如シ」だった。1人の捕虜が西寒多神社の絵葉書を見て喜び、友人に声をかけると大勢あつまってきて70組もの絵葉書が売れた、と記録されている。

[Source: 御遷座六百年史]
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一ノ鳥居は、肥後街道からの分岐点付近に建てられた。(肥後街道:  青ライン)

八幡田御神幸所も肥後街道の七瀬川の七ノ瀬地点である。

ドイツ人捕虜は、金池小学校から肥後街道を通り、一ノ鳥居をくぐって西寒多神社まで来たのではないか。その後、寒田村・田尻村を抜けて木上の少林寺へ。帰路は、肥後街道を歩いて戻ったと推測する。

昔からの旅人も肥後街道を外れ西寒多神社に参ってから木上付近で肥後街道に合流し、九重・阿蘇・熊本に向かったのかもしれない。

ただ、この辺りは細かく分藩されていたため、西寒多神社(延岡領)までパスポートなしで行けたのか否かは専門家に聞いてみないとわからない。
一ノ鳥居周辺と肥後街道沿いは、伊能忠敬よって測量されている。

第2次大分県下測量: 1810年12月18日~1811年1月13日
久住~(肥後街道を外れる)~竹田城下~堤(肥後街道)~今市~野津原~府内~別府~日出~山香~宇佐~中津~本耶馬溪~高瀬(福岡県)
野津原~府内間の記録を『伊能忠敬測量日記』より抜粋

【12.17】朝より晴天、六ツ後、野津原村出立、測量人は同前、同所より初め、枝恵良・胡麻鶴村字新開・枝廻洲、七瀬川巾二十一間、字三道、それより延岡領県(内藤亀之丞)木上村枝小柳・同口戸村枝田島・臼杵領稙田市村、それより延岡領粟野村・同領雄城村・臼杵領、下宗方村枝八幡田、七瀬川巾二十間、嶋原御宿預所光吉村まで側、二里〇八丁、測所打上げ、四十二間五尺六十〇間、それより仕越、光吉村と延岡領宮崎村まで測、七丁四十八間、合三里十七丁三十〇県五尺、九ツ前光吉村に引帰し着

止宿本陣嶋原御預所庄屋善左衛門、別宿組頭利平治

着後、嶋原御預所代官 井上清左衛門出る、府内惣年寄 渡辺久左衛門、泊宿 橋本屋八左衛門来る、熊本池部長十郎並びに手付四人足立津右衛門、此の所まで送り来たり、それにより坂部ノ方へ見舞に鶴崎へ行、この夜晴曇、測量

【12.18】朝より晴天、測者同前、六ツ後、光吉村出立、延岡領宮村より始め、延岡領当国当郡大庄屋清水作衛門、同所鴛野村庄屋安藤文吉、右領案内、西曲村津守村・片島村、それより府内領渡辺久左衛門案内、羽田村、下郡村・字六本松㊅印を残す、別手繋の為なり、由布川巾五十四間、府内城下(松平起之助居城)、字坊ヶ小路・東新町・塩九升(ショクセウ)町・米屋町・万屋町・蛭子町・稲荷町・下市町・中ノ町・檜物町・東上市町・京町・革屋町・桜町、止宿まで測る、午春(今年の春)残印に繋ぐ、一里三十二丁十九間一尺、岡宮村より始め、府内六本木一里〇六丁一十一間三尺、六本木印より府内止宿二十六丁〇間七四尺、四ツ後、府内城下桜町着止宿、同前橋本屋八右衛門

領界へ当所勘定方神屋幾治郎、代官小野代右衛門、書役芦苅満右衛門、町若年寄渡辺久左衛門出る、着後、町奉行増田茂太夫、郡奉行木戸庄右衛門、見舞に出る、この日、日出代官今村広作来る、この夜晴天測量、脇亭主酢屋平右衛門も付居る
光吉村での宿となった「庄屋善左衛門」邸の場所が気になっていたのだが、「伊能忠敬研究会」さんが公開したマップで判明した。

肥後街道と周辺寺社の位置関係で大体想像していた辺りだった。(七ノ瀬付近)
文久3年2月18日に勝海舟・坂本龍馬一行が肥後街道を通り七ノ瀬を渡り長崎に向かい、同4月9日七ノ瀬を反対方向に渡り鶴崎へ。

河川敷の竹藪で発見された歴史を感じさせる石碑があり、「ここは臼杵藩の端っこですよ」と記してある。
余談ではあるが、八幡田御神幸所跡地(周辺)と肥後街道も私の『孤高のゴミ拾い』ルートに入っており、毎日ゴミを拾っている。この地と先人へのリスペクトのつもりである。

Saturday, March 4, 2017

西寒多神社: 参道玉垣

昭和20年代初めまで寒田川に沿った路傍に玉垣があった。

玉垣が設置された時期は正確には分からないが、昭和11年の工事費支出簿に昭和11年2月から6月まで内渡金支払があり、総額1,472円50銭が支出されている。最後の支払いは6月2日になっているからこの時点で竣功したものとみてよい。

玉垣建設のために一宮講社では昭和10年12月から11年9月までに2,605円12銭の寄付金を募り、これを工事費に充てている。

終戦後、この玉垣は境内に移設されたが、その工事は昭和24年7月30日から8月2日にかけて石工による解体準備作業、9月18日から氏子が奉仕して行われた。

記録では移設場所は神饌所北側と回廊南となっている。現在、拝殿の東側に74本、回廊の西端に10本立っているのが、この時移設されたものであろう。平成19年に車椅子利用参拝者の参道を整備した際に、これまで放置していた石柱79本を参道脇(寒田川沿い)に建て直した。

石柱は大小2つのタイプがあり、それぞれ奉献者の住所氏名を刻んでおり、中には会社名のものもある。当初何本が建てられたかは不明。現在の石柱は163本、総延長は59.72メートルである。

163本の石柱のおおよその寸法は18センチ角で長さ77センチのものと、16.5センチ角で長さ70センチのものの2種類ある。

[Source: 御遷座六百年史]

【2017.9.22】ブログ休止のお知らせ

突然ではありますが、『孤高歩記』の投稿を休止することにしました。 ポイ捨てゴミについての私見を公開で記すことについては、「もういいかな(enough)」と考えています。ポイ捨てゴミについては、ネガティブな事案なので内容もそれっぽくなってしまい、それについては疲労感と云いま...